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『论文翻译』两面宿傩与飞騨国造

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此篇论文的作者为宝贺寿男(日本及北东亚细亚的古代史・系谱的研究者,日本家系图学会及家系研究协议会会长),个人认为此论文对于研究咒术回战两面宿傩的原型——飞騨国两面宿傩有很大的参考价值,所以在此与大家分享。本人日语水平不佳,对日本史与日本古代神话了解不深,翻译可能不够精准,请见谅。仅供参考,非商用,侵权删。后记未翻译,可前往原文网址观看。


IP属地:浙江1楼2020-12-01 23:28回复
    请注意,此篇论文的飞騨国两面宿傩不能与咒术回战中的两面宿傩相等。虽然芥见老师说过咒术两面宿傩是他看过很多东西启发产生的角色,但是咒术两面宿傩并非飞騨国鬼神,而是约千年前(平安时代)实际存在的人。因此这篇论文只是能让人更好地了解咒术两面宿傩原型的资料而已。
    『日本书纪』仁德天皇65年条中登场的两面宿傩。
    “六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其為人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多以輕捷 左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不随皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。”
    请注意,此篇论文为中日双语,总字数约3万,阅读时间较长,可选择合适时间观看。
    论文网址:
    http://wwr2.u宿com.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/ryou傩men/ryoumen1.ht
    (去掉文字)


    IP属地:浙江2楼2020-12-01 23:30
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      両面宿儺と飛騨国造
      (两面宿傩与飞騨国造)
      宝賀 寿男
      古代史のなかにはほとんど登場しないため、史的位置づけが弱い飛騨という地域について、当地の国造の起源と系譜を考えるものです。これ以前に、ほぼ同様な地理的位置を占める美作についても、別途の検討をしてその歴史的位置づけに重要性を認識したため、飛騨も検討してみて同様な認識をもったことで、論考として取り上げたものです。
      由于在古代史中几乎没有出现,所以对于历史地位较弱的飞騨这个地区,要考虑当地国造的起源和谱系。所以在此之前,我还另外研究了地理位置几乎相同的美作,并认识到它在历史位置上的重要性,我也研究了飞騨后得到了类似的认识,因此作为一种论述提出来。
      『古代史の海』誌第58号(2009年12月)に掲載された本論に、その後の検討で、若干追補をしています。
      『古代史之海』杂志第58期(2009年12月)上刊登的本论,在随后的探讨中进行了若干补充。
      (注:国造,日本大化改新以前设置的世袭制地方官,是地方的豪族,由朝廷任命统治着该地。训读为“みやつこ”,与“御奴”发音相同,也有“御家之子(御家つ子”)的意思。飞騨国,日本古代的地方行政区分的令制国之一,领域相当于现在的岐阜县北部。)
      はじめに 首先
      岐阜県北部の旧飛騨国の古代については、山間部の僻地であるため、ほとんど史料には登場しない。わずかに飛騨国造(斐陀国造)の始祖について、『旧事本紀』「国造本紀」斐陀国造条によると、成務朝に「瀛津世襲命(この次に、「裔」か「子」かの文字が欠字)大八椅命」が斐陀国造に任じられたと見える。瀛津世襲命は記紀に尾張連の祖と見え、その妹・世襲足姫が孝昭天皇の后となって孝安天皇を生んだと伝える大和朝廷初期の有力者である。これに対応して、『旧事本紀』「天孫本紀」掲載の尾張氏系譜のなか、始祖天火明命の第十世孫に大八椅命(彦与曽命の子とされる)をあげて斐陀国造の始祖と記される。この系譜では、大八椅命は瀛津世襲命の子でも直系子孫でもないが、傍系の子孫であっても同じ尾張氏一族ということで、系譜がほぼ符合するといえそうである。
      关于岐阜县北部旧飞騨国的古代,由于是山区的偏僻地区,因此几乎没有出现在史料上。关于飞騨国造的始祖(斐陀国造),据『旧事本纪』「国造本纪」斐陀国造条记载,在成务朝「瀛津世袭命(之后、缺了「裔」或「子」字)大八椅命」被任命为斐陀国造。瀛津世袭命在记纪中被认为是尾张连的祖先,相传他的妹妹・世袭足姫成为了孝昭天皇的皇后、生下了孝安天皇,瀛津世袭命是大和朝廷初期有权势的人。与此相对应,是『旧事本纪』「天孙本纪」刊登的尾张氏家谱中,给始祖天火明命的第十代孙子以大八椅命(一般认为是彦与曽命之子) ,被记载为斐陀国造的始祖。从这一系谱来看,大八椅命既不是瀛津世袭命的孩子,也不是直系子孙,但既是旁系子孙,也同样是尾张氏一族,因此可以说系谱基本符合。
      飛騨国造については、ほかに史料がないということで、この尾張連一族の出という系譜は研究者(崇神より前の系譜を否定する者を除く)からもほぼ信認されているようであり(『飛騨』一九九七年刊)、私自身も、従兄弟ないし兄弟とみられる北九州の豊国国造の祖・大原足尼との関係で、位置づけに検討の余地なしとしないとは思いながらも、とくに不審だとまでは思っていなかった。
      关于飞騨国造,由于没有其他的史料,尾张连家族的出身这一系谱似乎得到了研究者(除了否定崇神之前的系谱的人之外)的大体认可(『飞騨』一九九七年刊),我自己也、因为据说是表兄弟或兄弟的北九州的丰国国造的祖先・大原足尼的关系,知道在定位方面没有探讨的余地,也并不觉得特别可疑。
      ところが、別途の研究から、上古の美濃を開拓したのが古代鴨族で、山城北部から近江南部・伊勢北部を経て美濃西部に入ったことが分かり、これが全国の「木地師」とも深い関係をもつことが分かってきた。こうした観点も含め、飛騨開拓の歴史を少し丁寧に見直したところ、飛騨国造の系譜も、本来(原型)としての実態は美濃(三野前)国造の同族とみるのが妥当ではないかと考えるようになった。本稿は、こうした検討過程の試論である。
      然而,另一项研究表明,开拓上古的美浓的是古代鸭族,他们从山城北部经过近江南部・伊势北部进入了美浓西部,这与全国的「木地师」也有着很深的关系。包括上述观点在内,对飞騨开拓的历史进行了细致的审视,结果认为,飞騨国造的系谱、本来(原型)的实际情况看作是美浓(三野前)国造的同族会不会更加妥当。本文就是这些研究过程的试论。


      IP属地:浙江3楼2020-12-01 23:31
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        终于来了!第一时间!


        IP属地:比利时4楼2020-12-01 23:31
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          飛騨国造とその一族・後裔(飞騨国造及其家族・后裔)
          史料に見える飛騨国造一族としてみられる者に、まず飛騨国造高市麻呂がいる。奈良時代、天平勝宝元年(七四九)六月に飛騨国大野郡大領で当国国分寺に知識物を献じたことで外従五位下を授けられ、神護景雲二年(七六八)には造西大寺判官になったと『続日本紀』に見える。次ぎに、天平勝宝二年(七五〇)三月から翌三年二月にかけて、飛騨国造石勝は、奈良時代の中央下級官人として治部大録従六位下の地位にあったことが知られる(『大日本古文書』)。飛騨国造祖門は延暦二年(七八三)十二月に従七位下で飛騨国造に任じられ、その後の大同三年(八〇八)には外従五位下の主計助、主税助として『日本後紀』に見える。また、無尸であるが、飛騨道足が『正倉院文書』天平勝宝七年の「班田司歴名」の算師・史生のなかに見え、斐陀益君も使として『大日本古文書』(天平勝宝四年十二月)に見えるから、当時は飛騨・斐陀と表記されていたことが分かる。
          在历史资料中,被视为飞騨国造一族的人,首先是飞騨国造高市麻呂。奈良时代,天平胜宝元年(749年)六月,飞騨国大野郡大校向本国的国分寺献上了知识物,被授予了外从五位下。神护景云二年(768年)据『续日本纪』成为了造西大寺判官。其次,天平胜宝二年(750年)三月到翌三年二月期间,飞騨国造石胜、作为奈良时代的中央下级官员,处于治部大录从六位下的地位而广为人知(『大日本古文书』)。据『日本后纪』,飞騨国造祖门于延历二年(783年)十二月自从七位下被任命为飞騨国造,其后于同三年(808年)作为外从五位下的主计助、主税助。另外,虽然没有尸体,但飞騨道足在『正仓院文书』天平胜宝七年的「班田司历名」的算师・史生中可以看到,也能在『大日本古文书』(天平胜宝四年十二月)看到作为斐陀益君的使者,所以可以知道当时被标记为飞騨・斐陀。
          (注:知识物,即为佛教教徒为了积累善行或维持寺庙与佛像,抄写佛经或福祉等事业,捐赠的金钱或其他物品。)
          その後の平安期でも、肥田宿祢姓で史料に見える官人が飛騨国造一族の後裔だとみられ、肥田宿祢維延があげられる(『類聚符宣抄』では康保五年に史生、天禄四年に中務少録、永祚二年に右少史と見える)。『朝野群載』巻十六に「左少史肥田宿祢」と見えるのも同人とみられ、『本朝世紀』『小右記』などにも見えている。
          在此后的平安时期,能在史料看到的有着肥田宿祢姓氏的官人,一般认为是飞騨国造一族的後裔,给了肥田宿祢维延(据『类聚符宣抄』康保五年为史生,天禄四年为中务少录,永祚二年为右少史)。与『朝野群载』卷十六中的「左少史肥田宿祢」被视作为同一人,在『本朝世纪』『小右记』等也有出现。
          飛騨国造の領域は飛騨国一帯とみられるが、その本拠は宮川(神通川上流で、加茂川ともいった)流域の古川盆地・高山盆地、現在の岐阜県飛騨市古川町から高山市国府町のある高山市北部にかけての地域、であったとされる。なかでも、古墳の多さから古川盆地南部の国府町広瀬・三日町付近に中心域が置かれたと推定されている。飛騨地方ではこれまで五百余の古墳が発見されているが、そのうち三八〇余基が国府町(もと吉城郡〔荒城郡〕で現高山市)一帯にあるとされる。
          飞騨国造的领域一般认为是飞騨国一带,其根据地是宫川(神通川上流,也叫加茂川)流域的古川盆地・高山盆地,以及现在的岐阜县飞騨市古川町开始,到高山市国府町所在的高山市北部的地区。其中,根据古坟数量多推测,古川盆地南部的国府町広瀬・三日町附近有中心区域。到目前为止,在飞騨国发现了500多座古坟,其中380多座位于国府町(原吉城郡〔荒城郡〕,现高山市)一带。
          それらのうち、最古級で前期古墳とされるのが三日町大塚古墳(前方部がバチ形に開く二段築成の前方後円墳で、推定全長が九〇M級)であり、その形態・規模からも国造初祖の墳墓という可能性もあろう。この古墳の存在からみて、四世紀後半の成務朝に飛騨国造がおかれたという「国造本紀」の記事は傍証されよう。国府町名張にある一之宮神社の傍らにある古墳からは、「長宜子孫」の銘をもつ大型の鉄製キ鳳鏡が出て同社が所蔵するが、キ鳳鏡は、中国の後漢から魏晋代・西晋にかけて製作された鏡で、わが国では、弥生時代後期から古墳時代前期を中心に合計二五の遺跡・古墳で出土していて、すべてが舶載鏡とされるから、これも古川盆地開拓の時期を示唆する。鉄製のキ鳳鏡は、わが国唯一の出土例とされており、美濃国不破郡の南宮神社付近にあって美濃最古級とみられている象鼻山古墳からもキ鳳鏡の出土が知られる。
          其中,最古老且被认为是前期古墓的是三日町大塚古坟(前方部分以蜂形开启的两段构成的前方后圆坟,推测全长为90米级),从其形态和规模来看,也有可能是国造初祖的石坟。从这座古坟的存在来看,在4世纪后半期的成务朝时设置飞騨国造,「国造本纪」的资料可以旁证。位于国府町名张的一之宫神社旁边的古坟里,出现了带有「长宜子孙」字样的大型铁制キ凤鏡,由该神社收藏,キ凤鏡是从中国后汉到魏晋代・西晋时期制作的镜子,在我国,以弥生时代后期开始的,古坟时代前期为中心,共在25个遗迹・古坟中出土的,全部都是舶载镜,所以这也暗示着古川盆地开拓的时期。铁制的キ凤鏡,我国唯一的出土例子,在位于美浓国不破郡的南宫神社附近,被认为是美浓最古老的象鼻山古坟中也出土了キ凤鏡。
          続いて、五世紀前半ないしは中葉の築造とされるのが、広瀬の亀塚古墳である。亀塚は竪穴式石室をもつ古墳で、鉄製の刀・剣が十数本のほか、甲冑や鉾、鉄鏃などを出土したが、明治中期に取り壊されて現存しない(大規模な円墳で直径約六〇Mないし八〇Mとも、帆立貝式古墳で墳長約七〇Mともいうが、後者の墳形で約八〇M超の可能性があるか)。これに続いて飛騨最大級の石室をもつ広瀬の鴻峠口古墳があり、墳長約七三Mの前方後円墳で、横穴式石室をもつ後期の古墳とみられている。この国府町広瀬地区一帯には、引き続いて飛騨国府も置かれたようで、それが中世までつながった。
          其次,被认为是五世纪上半叶或中叶建造的是、広瀬的龟塚古坟。亀塚是一座有竖坑式石室的古坟,除了十几把铁制的刀・剑以外,还出土了甲胄与矛、箭头等,但在明治中期被拆除,现在已不复存在(巨大的圆坟,直径约60米到80米,帆立贝式古坟的坟长约70米,后者的坟状或许有可能超过80米)。接下来是飞騨最大级的坟是広瀬的鸿峠口古坟,坟长约73米的前方后圆坟,一般认为是具有横穴式石室的后期古坟。在这个国府町広瀬地区一带,似乎还继续设置了飞騨国府,并一直延续到了中世。
          (注:日本历史上,古代为古坟时代、飞鸟时代、奈良时代、平安时代;中世为镰仓时代、室町时代、战国时代;近世,安土桃山时代、江户时代。考古学上,分为旧石器时代,绳文时代,弥生时代,历史时代。)
          すでに縄文中期頃から、高山市の垣内遺跡、同市丹生川町の岩垣内遺跡・西田遺跡(両遺跡からの土偶出土は著名)、飛騨市古川町の中野山越遺跡などの遺跡があらわれるから、集落があった飛騨の主要居住地域が分かる。この地に入ってきたのが国造の先祖であろう。
          从绳文中期开始,出现了高山市的垣内遗迹、同市丹生川町的岩垣内遗迹・西田遗迹(两个遗迹中出土的土偶是著名的)、飞騨市古川町的中野山越遗迹等遗迹,因此可以知道有村落的飞騨的主要居住地域。来到这片土地的就是国造的祖先吧。
          国造一族の氏神は飛騨国一宮とされる高山市南部、一之宮町石原の大野郡式内社の水無神社であったことに疑いない(一之宮神社は同市国府町名張にもあることは前出)。水無神社が史上にあらわれるのは平安前期の貞観九年(八六七)で、神階の授与記事が見える。中世・近世には水無大菩薩、水無八幡宮とも呼ばれたが、宮川の水源ともなる当社の南西方約七キロにある位山を神体山とする。祭神の水無神は、現在は御歳神ともいい、尾張連祖神の天火明命の別名とも、高照姫(御歳神と同じ?)あるいは少彦名神とする説など、その実体について諸説多いが、これらは要検討であり、後述する。相殿には大己貴命、神武天皇、応神天皇、天火明命、少彦名命、天照皇大神、豊受姫などが祀られること、特殊神事として闘鶏楽があることに留意しておきたい。闘鶏楽は古来の飛騨独自の神事で、宮川流域各地の神社で行われてきて、「鳥毛打」ともいう。
          国造家族的氏神,无疑是被认为飞騨国一宫的高山市南部、一之宫町石原的大野郡式内社的水无神社(一之宫神社在同市国府町名張也有)。水无神社出现在历史上是在平安前期的贞观九年(867年) ,可以看到神阶授予的资料。在中世・近代,也被称为水无大菩萨、水无八幡宫,将也是宫川的水源、本神社的西南方约7公里的山当做为神体山。祭神的水无神现在被称为御岁神,又被称为尾张连祖神的天火明命,又被称为高照姬(与御岁神相同?)或少彦名神等,对其实体有很多说法,这些都是研究重点,将在后面叙述。相殿内供奉着大己贵命、神武天皇、应神天皇、天火明命、少彦名命、天照皇大神、丰受姫等,作为特殊的神事还有闘鸡乐,这一点要注意。闘鸡乐是自古以来飞騨独有的神事,在宫川流域各地的神社举行,也被称为「鸟毛打」。
          (注:一宮,是那个地域中社格最高的神社。也被写作一の宮或一之宮。)
          一宮の奉仕者は中世まで一宮氏であり、これが飛騨国造の嫡裔とみられる。戦国末期に一宮刑部大輔国綱(苗字は山下ともいい、入道三沢。民部少輔長綱の子)は大野郡山下城主で、南飛騨の戦国大名三木氏に与して三木自綱の妹婿となり、神職を家臣の森氏に譲って、自らも三木と名乗ったが、天正十三年(一五八五)に金森長近が飛騨に侵攻すると、これに二度も抗して遂に滅ぼされた。一宮神主については、十五世紀中葉頃の室町幕府の政所執事代であった蜷川親元による『親元日記』に、文明十三年飛州一宮神主政憲、上棟記録に大永元年神主藤原民部少輔政治、享禄二歳一宮……神主藤原民部大夫政慶と見えており、この頃は藤原姓を称していた。
          一宫的服务者直到中世都是一宫氏,这被认为是飞騨国造的嫡系。战国末期,一宫刑部大辅国纲(姓山下,也叫入道三沢。民部少辅長纲之子)是大野郡山下城主,给南飞騨的战国大名三木氏三木自纲(注:三木自纲,后改姓为姊小路赖纲。)当了妹夫,把神职让给家臣森氏,自称为三木,但在天正十三年(一五八五)金森长近进攻飞騨后,两次反抗,最终被消灭。关于一宫神主,在十五世纪中叶时期室町幕府的政所执事代,蜷川亲元写的『亲元日記』中记载了,文明十三年飛州一宮神主政憲、上棟記録に大永元年神主藤原民部少輔政治、享禄二歳一宮……是神主藤原民部大夫政庆,最近又称藤原姓。
          江戸後期になって、安永二年(一七七三)の農民一揆に関与して、宮司の山下和泉(国綱の子孫)と森伊勢は処罰され、社家二家は断絶した。これが、当社の古来の所伝が失われたことにつながるか。明治五年(一八七二)には、太政官布告をもって世襲神主・社家(毛利、藤枝、藤江)が廃されたが、尾張などの例からして、毛利は森と同族とみられる。余談であるが、その後の明治初期には、島崎藤村の父で平田門下の国学者であった島崎正樹が三年間、水無神社の宮司をつとめていて、小説「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルとされる。
          到了江户后期,因参与安永二年(1773年)的农民起义,宫司的山下和泉(国纲的后裔)和森伊势被处罚,神职两家断绝了。这与该神社自古以来的相传的丢失有关吗。明治五年(1872年) ,根据太政官布告,废除了世袭神主・神社家族(毛利、藤枝、藤江) ,从尾张等例子来看,毛利与森是同族。这是题外话,后来的明治初期,岛崎藤村的父亲、平田门下的日本国学家岛崎正树在水无神社担任了三年的宫司,被认为是小说「黎明之前」中主人公青山半藏的原型。


          IP属地:浙江5楼2020-12-01 23:34
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            国府町には、鴻の宮と呼ばれる広瀬神社(祭神は現在は天照大神になっているが、社記によれば天火明命)もあり、飛騨国府を中心とする要衝の地を領して山崎城や高堂城などを築き室町・戦国期に一定の勢力を保った土豪・広瀬氏がいた。広瀬氏は藤原利仁流と称したが、これも実態はおそらく飛騨国造の末流ではないかとみられる。
            在国府町,有被称为鸿之宫的広瀬神社(祭神虽然现在成了天照大神,但根据社记记载是天火明命) ,有领导以飞騨国府为中心的要地,建立山崎城和高堂城等,在室町・战国期保持一定势力的土豪・広瀬氏。広瀬氏虽然被称为藤原利仁流,但实际上这恐怕也是飞騨国造的末流。
            飛騨国造の氏寺は、広瀬の八キロほど下流に位置する古川町太江の寿楽寺廃寺とみられており(八賀晋氏)、遺跡からは奈良時代後半のものと思われる「高家寺」と墨書きされた土器や単弁八弁蓮華文軒丸瓦などが出土した。
            飞騨国造的氏寺,一般认为是位于広瀬八公里左右下游的古川町太江的寿乐寺废寺(八贺晋氏),从遗址来看,出土了据说是奈良时代后半叶的东西,用墨笔写着「高家寺」的陶器与瓦单瓣八瓣莲华文轩丸瓦等。
            「両面の宿儺」の伝承
            (「两面的宿傩」的传说)
            古代の飛騨が最初に見えるのは、『日本書紀』の「両面宿儺」の伝承である(『古事記』には見えない)。この宿儺なる者は、仁徳朝のとき飛騨国に現れた二つの顔と四手四足の身体をもつ怪物(鬼神)であり、動きが敏捷で怪力をもち、皇命に背いて民衆を苦しめたので、仁徳六五年に朝廷が征討軍を差し向け、和珥臣祖の難波根子武振熊命により退治されたと記される。
            最初能看到古代飞騨的是、『日本书纪』的「两面宿傩」的传说(在『古事纪』中看不到)。据记载,这个被称为宿傩的人、是在仁德朝时的飞騨国里出现的,有着两张脸和四手四足的怪物(鬼神),动作敏捷,有着怪力,违抗皇命,让民众受苦,于是仁德六五年朝廷派出征讨军,被和珥臣祖的难波根子武振熊命退治了。
            ところが、現地の飛騨・美濃では、文化英雄として信仰の対象となっていて、事情がたいへん異なる。宮川の支流・荒城川が流れる高山市丹生川町(旧大野郡丹生川村)の千光寺(円空彫の宿儺像もある)や善久寺は、両面宿儺を開基としており、両面宿儺は飛騨国に仏教を伝えたとされているほか、飛騨や美濃国武儀郡などの多くの古寺(武儀郡下之保の日竜峯寺、同郡肥田瀬の暁堂寺など)でも両面宿儺が信仰の対象とされ、「両面僧都」などと尊称されている。
            但是,在当地的飞騨・美浓,他作为文化英雄成为了信仰对象,情况有很大的不同。位于宫川的支流・荒城川流淌的高山市丹生川町(旧大野郡丹生川村)的千光寺(也有圆空雕的宿傩像)和善久寺是以两面宿傩为开基的,据说是两面宿傩向飞騨国传达了佛教,除此之外,飞騨和美浓国武仪郡等多个古寺(武仪郡下之保的日龙峰寺、同郡肥田瀬的晓堂寺等)都将两面宿傩视为信仰的对象,他被尊称为「两面僧都」。
            飛騨国蜂賀(八賀とも書き、丹生川地区にあった地名)の岩窟より宿儺が出現したとも伝えられ、それが丹生川町日面の両面窟ともされる。丹生川流域の千光寺は、一宮水無神社の別当寺であった。日竜峯寺の縁起では、宿儺は身に鎧を着て、四手には鉾・錫杖・斧・八角檜杖をもった救国の英雄だとされる。至高の神は双面神との見方もあり、中国の武神蚩尤〔シユウ〕に通じるという見方もある。
            据说,飞騨国蜂贺(又名八贺,位于丹生川地区的地名)的岩窟中出现了宿傩,这个也被称为丹生川町日面的两面窟。丹生川流域的千光寺是一宫水无神社的别当寺。在日龙峰寺的吉兆中,宿傩据说是身着铠甲、四手持矛・锡杖・斧・八角桧杖的国家英雄。有人认为至高的神是双面神,也有人认为它与中国的武神蚩尤〔シユウ〕是有联系的。
            仁徳朝といえば、西暦五世紀前葉の時期であり、この時期に仏教が日本列島に到来したことは考え難く、また退治したとされる武振熊命も仁徳朝よりも時期が少し早い成務・応神朝に活動した武将であるから、話が全体として整合性がないことが分る。とはいえ、宿儺の記事は飛騨という地域の初見であり、現地に伝わる英雄伝承を考えれば、たんなる怪異伝承と切り捨てるのは問題が大きい。その示唆するものを、合理的に検討する必要があるということである。両面宿儺は双子(二人)の兄弟支配者を一体として表現した可能性も考えられるし、「宿儺」は宿祢(足尼)という敬称を意味するようにも思われる。
            说到仁德朝,是公元5世纪前叶的时期,很难想象佛教在这个时期来到了日本列岛,而且退治的时候,武振熊命也是在比仁德朝更早一些的成务・应神朝时期活动的武将,因此从整体上可以看出故事缺乏一致性。话虽如此,宿傩的资料是在飞騨这个地区首次见闻,如果考虑到当地流传的英雄传说,简单地把它当做怪异的传说舍去是很大的问题。有必要合理地研究其暗示的东西。两面宿傩有可能是把双胞胎(两人)的兄弟统治者作为一个整体来表现的,「宿傩」被认为是宿祢(足尼)的敬称。
            この宿儺を検討するために、飛騨の諸事情を総合的に見ていこう。
            为了研究这个宿傩,回顾一下飞騨的历史。


            IP属地:浙江6楼2020-12-01 23:35
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              IP属地:河北来自iPhone客户端7楼2020-12-01 23:36
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                飛騨匠と位山
                (飞騨匠と位山)
                宿儺伝承に関係深い高山市の丹生川町一帯は、近代に至るまで飛騨木地師の本拠地であった。しかも、飛騨木地師の先駆けとされる勾部猪麻呂は安閑天皇(勾大兄)の御名代の勾部を姓氏とすることから、飛騨国造の一族の出とみられる。天平勝宝・天平宝字年間に東大寺と石山寺(天平宝字六年〔七六二〕)の二大造営工事が行われ、この工事に従事して功績の大きかった工匠・勾猪麻呂は従八位上の位階を授かり、その任期後も都に留まって興福寺や恭仁京などの建設にも関与したとされる。『正倉院文書』(大日本古文書所収)に所収の天平宝字六年(七六二)正月の造石山院所の文書には、「木工散位寮散位従八位下勾猪万呂、年、斐太国」と見え、その少し後ごろとみられる「奉写一切経所上日帳」に、「従八位上勾部猪麻呂、年五十三、飛騨国荒城郡人」と見える。従八位という官位は造営の功績によるが、地方の郡領級に与えられた地位であった。同じく木工として勾羊も見えるが、やはり飛騨出身か。「勾」は「勾部」が省略された表記であることも分かる。
                跟宿傩传说有很深关系的高山市的丹生川町一带,直到近代为止一直是飞騨木地师的根据地。而且,被誉为飞騨木地师的先驱的勾部猪麻吕以安闲天皇(勾大兄)的御名的勾部为姓,所以一般认为是飞騨国造一族的出身。天平胜宝・天平宝字年间,进行了东大寺与石山寺(天平宝字六年〔762年〕)两大建造工程,从事该工程的功绩很大的工匠・勾猪麻呂被授予从八位上的地位,并在任期结束后也留在首都,参与了与福寺和恭仁京等的建设。在『正仓院文书』(大日本古文书所收)中收录的天平宝字六年(762年)正月的造石山院所的文书中,有「木工散位寮散位従八位下勾猪万呂、年、斐太国」的记载,之后的「奉写一切経所上日帳」中,能看到「従八位上勾部猪麻呂、年五十三、飛騨国荒城郡人」。从八位这个官位,是因为建造的功绩,赋予了地方的郡领级的官位。看到了同为木工的勾羊,果然是飞騨出身吗。也可以看出「勾」是省略了「勾部」的写法。
                その六年後の神護景雲二年(七六八)には、飛騨国造高市麻呂が造西大寺大判官に任命されたが、在地の声望を活かして造営に参加する匠丁の統制を図るものとみられている(野村忠夫、早川万年両氏の趣旨)。奈良時代に行われた造営工事には、多くの飛騨匠(飛騨工)が大いに貢献しており、神亀から天平にかけての平城宮跡出土の造営関係木簡には勾葦椅、勾五百足の名が見られる。こうした事情もあって、天平宝字年間に編まれたとみられる『万葉集』にも、飛騨匠をうたった和歌が二首ある。匠丁の労働はかなり苛酷だったか、飛騨工の工事現場からの逃亡者もかなり多かったようで、これらを捜捕させる命令も出された。
                六年后的神护景云二年(768年),飞騨国造高市麻吕被任命为造西大寺大判官,不过被认为图谋着利用当地的声望来统管参与建造的匠丁(野村忠夫,早川万年两氏的宗旨)。在奈良时代进行的建造工程中,许多飞騨匠(飞騨工)贡献颇大,从神龟到天平的平城宫出土的建造关系木简中,可以看见勾葦椅、勾五百足的名字。正因为有这样的情况,在天平宝字年间编纂的『万叶集』中,有两首歌咏飞騨工匠的和歌。匠丁的劳动相当苛刻残酷,飞騨工人从工地现场逃亡的人好像也很多,对此下达了搜捕他们的命令。
                さらにその後、山城国に平安京が完成するが、その造営にも飛騨工が従事し豊楽院を建てたとされ、これは飛騨匠・桧前ひのくま杉光の建造という説がある。桧前杉光は、平安中期の学者藤原明衡による往来物『新猿楽記』に見える工匠であるが、目は墨壺、首は手斧、足は鉄槌のようだと形容される不思議な身体をもつとされる。特定の職業に関する典型的なイメージで姿が表現されたものであるが、両面宿儺のイメージもこうしたものに通じる。『今昔物語集』(巻二四-五)の中の一話「絵師百済河成と飛騨匠、技を競う」に登場した名工にも当てられる者であるが、桧前部も御名代の一つ(欽明天皇の名代)であり、「杉光」という名前からは架空とみられるが、桧前某という者がいて、それが実在の匠であった場合には、やはり飛騨国造一族の出(ないしその部民)であった可能性がある。
                在那之后,山城国建成了平安京,在其建造中也有飞騨工人参与,建造了丰乐院,有一说这是飞騨匠桧前杉光的建造。桧前杉光,是在平安中期学者藤原明衡的『新猿乐记』中有所记载的工匠,眼睛像墨斗,脖子像手斧,脚像铁锤,有着被这样形容的神奇的身体。这是关于特定职业的典型形象的表现产物,两面宿傩的形象也与其有联系。在『今昔物语集』(巻二四-五)中的一话「絵師百済河成と飛騨匠、技を競う」中出现的名匠也有被猜中的人,桧前部也是御名代之一(钦明天皇的名字),从「杉光」的名字来看可能是虚构的,但如果桧前这样的人存在,他是真正的匠人的话,还是有他是飞騨国造一族的出身(或是其部民)的可能性。
                水無神社の神体山でその奥宮(山頂手前に所在)のある位山について、室町中期の飛騨国司で権中納言であった姉小路基綱(一四四二生~一五〇四年没)は自ら選んだ「飛騨八所和歌集」の裏書に、位山の主が「両面四手」であり、しかもそれが「神武天皇へ王位たもち給ふべき」神であったと記している。位山(標高一五二九M)は古代からの霊山で櫟の原生林があり、本州中部の分水嶺であって、そこを水源とする流れは、南へは無数河川、次ぎに飛騨川本流から木曽川へと合流して太平洋に注ぎ、北への流れは宮川から神通川となって日本海へと注いでいる。ここでも、位山は南北二つの顔を持っている。位山の巨石群は古代からの信仰・祭祀の対象を示すものとみられる。
                关于位于水无神社的神体山的奥宫(在山顶前)的位山,室町中期的飞騨国司也是权中纳言的姉小路基纲(1442出生~1504年去世)自己选择了的「飞騨八所和歌集」的里书中,记载着位山的主人是「两面四手」,而且还是「神武天皇应给王位」神。位山(海拔1529米)是自古以来就有的灵山,是栎的原始森林,是本州中部的分水岭,以那里为水源的流向,南方有无数河流,接着从飞騨川本流合流到木曽川,流入太平洋,北流从宫川流向神通川,流入太平洋日本海。在这里,位山也有着南北两张面孔。位山的巨石群一般认为显示着自古以来信仰・祭祀的对象。
                こうして見ると、両面宿儺はたんなる妖怪・鬼神ではなく、飛騨国造の祖先の一人であった可能性がある。「宿儺」は「スクナ」の神、すなわち少彦名神(鴨県主・葛城国造や鳥取造などの祖)に通じる。宿儺には少彦名命の末裔という所伝もあり、「大国主与少彦名」とが二心が一体となって国造りをした喩えとの見方もある。洞窟から出てきたという伝承は、金属鉱山を探す業を持ったことにも通じるものか。丹生川村は名前のとおり丹砂(辰砂で、硫化水銀のこと)の産地だったとみられる。両面宿儺を退治したという「ワニ」といえば、水神クンピーラであり、この神は日本では金毘羅さんとなるが、これがわが国の金属祖神であり、美濃国一宮の不破大社で祀られている事情にもある。
                从这个角度看,两面宿傩有可能不只是妖怪・鬼神 ,而是飞騨国造的祖先的一人。「宿傩」与「少名」的神,也就是与少彦名神(鸭县主・葛城国造和鸟取造等的祖先)有联系。有宿傩是少彦名命的后裔的传说,也有人认为这是「大国主与少名昆古那」二心一体共同建立国家的比喻。从洞穴里出来的传说、和寻找金属矿山是有联系的吗。丹生川村如其名是丹砂(辰砂、也就是硫化水銀)的产地。说起退治了两面宿傩的「鳄鱼」,就是水神クンピーラ,这个神在日本是金毘罗,这是我国的金属祖神,也有在美浓国一宫的不破大社被祭祀的情况。
                (注:「少名」、「少彦名神」,即为少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。是天津神,天津神为在高天原的神,或是从高天原降临的众神的总称。是国造的协力神,常世的神,持有医药・温泉・禁厭・谷物・知识・酒造・石的神等多种特性。禁厭(まじない),为日本的咒术,在神道中大国主神与少彦名神为禁厭的祖神。『日本书纪』中,记载了为了驱除鸟兽和昆虫的危害而制定了去除诅咒(两神)的规则,可见这是与农耕相关的禁厭。)
                (注:大国主神(おおくにぬしのかみ),为代表国津神的神,是国津神的主宰神。出云大社・大神神社的祭神。国津神,是在地(苇原中国)出现的众神的总称。为国造的神,农业神、药神、禁厭的神。关联氏族有三轮氏、鸭氏等。苇原中国,高天原与黄泉的国之间的世界,大国主神与少名毘古那神一起建立了苇原中国。)
                (注:贺茂氏,又名加茂氏、鸭氏、加毛氏。其中的地祇系中的著名人物,有贺茂忠行、贺茂保宪、贺茂光荣。『加茂氏系图』、『尊卑分脉』等,实际上是将贺茂蝦夷之子的贺茂吉备麻呂与吉备真备视作同一人物,记录着那个后裔是贺茂朝臣氏,不过是后世的假冒。)
                (注:金毘罗(くびら),梵语Kumbhīra的音译,又名宫毘罗,是佛教的水运的神,天竺灵鹫山的鬼神,药师如来十二神将的头目。)
                谷口研語氏は、「飛騨の大和朝廷への服属過程がデフォルメされた説話で、怪人の姿は畿内とは異質の山国飛騨の文化を象徴するものであろう。飛騨または飛騨人の文献上の初見であり、後世、飛騨地方では、この怪人にまつわる様々な伝説が生み出された」と記すが(『朝日日本歴史人物事典』)、前半部分は疑問である。時期的に考えて、飛騨が大和朝廷の勢力圏に一度組み入れられた後に、この地域になんらかの反乱があって、そのときの服属過程を表すとみたほうがよいと考えられる。
                谷口研语氏说,「这是一个将飞騨服从大和朝廷的过程进行变形的故事,怪人的形象象征着与畿内不同性质的山国飞騨文化。这是飞騨人或飞騨人的文献上的第一次见到,在后世、飞騨地方,产生了关于这个怪人的各种传说」这样记录着(『朝日日本历史人物事典』),前半部分是疑问。从时期上考虑,飞騨一度被编入大和朝廷的势力圈后,这个地区发生了某种叛乱,可以认为是表示当时的服从过程。
                岐阜県立博物館館長であった広田照夫氏は、その共著『飛騨の鬼神 両面宿儺の正体』で、仁徳天皇の後背支援勢力である葛城・和珥の連合軍に敗死したとされる、謎の両面宿儺の正体は応神天皇の長子・額田大中彦か、という説を提示する。これも説が飛躍しすぎて疑問であり、飛騨という限定地の伝承を中央の政争の比喩話として捉えるべきではなかろう。額田大中彦が飛騨に居たという証拠もない。
                岐阜县立博物馆馆长広田照夫在其合著『飞騨的鬼神 两面宿傩的真面目』中,提出了谜一般的两面宿傩的真面目是,输给了仁德天皇的背后支援势力葛城・和珥的联合军,应神天皇的長子・额田大中彦,这样的说法。这个说法也过于飞跃而有疑问,不应该将飞騨这一限定地的传说当做中央政治斗争的比喻。也没有额田大中彦在飞騨的证据。


                IP属地:浙江8楼2020-12-01 23:37
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                  ヒダの地名と担った氏族(飞騨的地名与氏族)
                  ヒダは、古代では斐陀、斐太、斐、飛騨、飛駄、肥田、比多、比田、日田など多くの表記をもつが、これらに関連する氏族がその多くが少彦名神を祖神とするか、天孫族の流れを汲む傾向が見られる。具体的な例をあげてみると、次のようなものである。
                  飞騨,在古代有斐陀、斐太、斐、飛騨、飛駄、肥田、比多、比田、日田等多种记录,与其有关的氏族大部分以少彦名神为祖神,或者追随天孙族的流派。以下是具体的例子。
                  (1) 比多国造  豊後国日高郡日田郷にあった国造であり、成務朝に葛城国造同祖の止波足尼が国造に定められたと「国造本紀」に見える。葛城国造は鴨県主と同族で、少彦名神を祖神とする天孫族の流れであった。
                  (1) 比多国造 是位于丰后国日高郡日田乡的国造,据「国造本纪」,成务朝时葛城国造同祖的止波足尼被定为国造。葛城国造和鸭县主是同族,是以少彦名神为祖神的天孙族的流派。
                  (2) 肥田 伊豆国田方郡に肥田の地があり、この地に起こった肥田氏は『東鑑』にも見えるが、伊豆国造一族の出であった。伊豆国造は服部連と同族で、少彦名神を祖神とする。
                  (2) 肥田 是伊豆国田方郡上的肥田的土地,起始于这里的肥田氏在『东鉴』能看见,也出身于伊豆国造一族。伊豆国造与服部连是同族,以少彦名为祖神。
                  (3) 肥田・肥田瀬  美濃国では土岐郡に肥田村、大野郡にも肥田(旧谷汲村南部)があり、武儀郡肥田瀬庄、賀茂郡飛騨瀬庄の地名もあり、土岐一族に肥田・肥田瀬の苗字がある。総じて肥田と書くことが多いが、「長享常徳院江州動座着到」には四番衆として「土岐飛騨中務少輔直盛」など、土岐飛騨氏として表現される。
                  (3) 肥田・肥田瀬 在美浓国,土岐郡有肥田村,大野郡也有肥田(旧谷汲村南部),还有武仪郡肥田瀬庄、贺茂郡飞騨瀬庄等地名,土岐一族有肥田、肥田濑的姓氏。总的来说,写作“肥田”的情况很多,「长享常徳院江州动座着到」则是作为四番众「土岐飞騨中务少辅直盛」等,表现为土岐飞騨氏。
                  土岐郡の開発者たる礪杵氏は、三野本巣国造の同族であったとみられる。三野本巣国造の祖・神骨命(神大根命)は彦坐王の子に位置づけられるが、これは系譜仮冒であって、実際には山城鴨族の一派であったとみられる。
                  作为土岐郡的开发者的砺杵氏,一般认为是三野本巢国造的同族。三野本巢国造的祖先・神骨命(神大根命)被定位为彦坐王的儿子,但这是系谱假冒,实际上是山城鸭族的一派。
                  (4) 巨勢斐太臣(巨勢田臣)  巨勢雄柄宿祢の子孫であるが、この氏は武内宿祢後裔ではなく、北九州に起こった天孫族の宇佐国造・筑紫国造一族の流れだとみられる。大和国高市郡の飛騨邑に関係するか。
                  (4) 巨勢斐太臣(巨勢田臣)  是巨势雄柄宿祢的后代,但这个姓氏不是武内宿祢的后裔,据说是起源于北九州的天孙族的宇佐国造・筑紫国造一族的流派。与大和国高市郡的飞騨邑有关吗。
                  (5) 飛駄  奥州伊具郡の高蔵寺の棟札に「治承元年丁酉五月、云々、大工飛駄右衛門尉行正、小工飛駄左近三郎正□」と見える(『姓氏家系大辞典』)。
                  (5) 飛駄  奥州伊具郡的高蔵寺的上梁记牌上,写着「治承元年丁酉五月、云々、大工飛駄右衛門尉行正、小工飛駄左近三郎正□」(『姓氏家系大辞典』)。
                  (6) 比田 相模国大住郡日田郷から起こった三浦氏の一族。三浦氏が桓武平氏良文流というのは系譜仮冒で、実際には相模国造支族の流れとみられるが、相模国造は天孫族系の物部同族で、出雲国造支流に出た。
                  (6) 比田 起源于相模国大住郡日田乡的三浦氏一族。三浦氏是桓武平氏良文流这样的系谱是假冒的,据说实际上是相模国造支族的流派,相模国造与天孙族系的物部是同族,出了出云国造的支流。
                  飛騨国の有力神社と鴨族関係の神々(与飞騨国的有力神社和鸭族有关系的众神)
                  飛騨の式内社八社や国史見在社などを見ると、鴨族など天孫族や水神の罔象女神に関係が深い神社が多い。そうした神社をあげてみると、次のとおり。
                  从飞騨的式内社八社和国史见在社等来看,与鸭族等天孙族和水神的罔象女神关系密切的神社很多。以下是这样的神社的例子。
                  (1) 高田神社  荒城郡にあげられる式内社で、飛騨市古川町に論社が二つあり、太江字神垣内の高田神社は高魂神を祭神とし、貴船町の貴船神社は高命を祀る。どちらに比定するとしても、ともに水神を祀、るとしてよさそうである。鴨族の本拠・山城国愛宕郡にも有名な貴船神社(名神大社)があり、水神の高命ないし罔象女神を祀るとされ、大和の丹生川上神社と並んで丹貴二社と呼ばれた事情がある。
                  (1) 高田神社  位于荒城郡的式内社,飞騨市古川町有两个论社,大江字神垣内的高田神社以高魂神为祭神,贵船町的贵船神社祭祀着高命。无论与哪个比较,似乎都可以一起祭祀水神。鸭族的根据地・山城国爱宕郡也有著名的贵船神社(名神大社),供奉水神的高命或者罔象女神,和大和的丹生川上神社并称为丹贵二社。
                  太江のほうでは、近世には白山権現と称され、白山比咩(罔象女神と同神)・鴨別雷神・天津彦根命(少彦名神の父神)を配祀することにも留意され、こちらが妥当か。当社を中心に二一基の古墳が環状に配されており、近くで白鳳期の古瓦が出土し釜谷古窯跡もある事情もある。なお、美濃国土岐郡には高田の地があり、従五位下高田明神(美濃国神明帳。現白山神社に比定)があって、土岐一族の高田氏が起こっている。
                  在太江方面,近世被称为白山权现、白山比咩(与罔象女神是同一神)、鸭别雷神、天津彦根命(少彦名神的父神)的配祀也被注意到,这样妥当吗。以本神社为中心,21座古坟以环状排列,附近出土了白凤时期的古瓦,还有釜谷古窑遗址。另外,美浓国土岐郡有高田的土地,有从五位下高田明神(美浓国神明帳。现比定为白山神社),土岐一族的高田氏正在兴起。
                  (2) 荒城神社  荒城郡の式内社で、高山市国府町宮地に鎮座。江戸期に河伯大明神と呼ばれ、天之水分神・国之水分神(『特選神名牒』。一説に大荒木之命・国之水分命・弥都波能売神)を祭神としており、水神信仰に関わる社であった。周辺には縄文中期の遺跡が多いので、上古来の水神祭祀を窺わせる。「大荒木之命」は飛騨国造の祖神・祖先ではないかと考えられるが、伊豆国田方郡式内の荒木神社が天津彦根命を祀ることに留意される。
                  (2) 荒城神社  荒城郡的式内社,位于高山市国府町宫地。江户时期被称为河伯大明神,将天之水分神・国之水分神(『特选神名牒』。一说是大荒木之命・国之水分命・弥都波能卖神)作为祭神,是与水神信仰相关的神社。周边有很多绳文中期的遗迹,因此可以看到上古以来的水神祭祀。据说「大荒木之命」可能是飞騨国造的祖神・祖先,不过也留意到了伊豆国田方郡式内的荒木神社祭祀天津彦根命的情况。
                  (3) 阿多由太神社  荒城郡の式内社で、高山市国府町木曽垣内に鎮座。大歳御祖神を祀り、家津御子神・早玉之男神・熊野久須美命の熊野神を配祀する。
                  (3) 阿多由太神社  荒城郡的式内社,位于高山市国府町木曽垣内。祭祀大岁御祖神,配祭家津御子神・早玉之男神・熊野久須美命的熊野神。
                  (4) 栗原神社  荒城郡の式内社で、吉城郡上宝村(現高山市上宝町)宮原に鎮座して、五十猛神を主神とし、大山祇大神・宇迦之御魂神・菊理姫命(白山比咩・豊受大神・宇迦之御魂神と同神)を祀る。五十猛神と菊理姫命とは夫妻神で、わが国天孫族の祖神である。なお、同名の栗原神社がもう一社、古川町上町にもある。
                  (4) 栗原神社  荒城郡的式内社,位于吉城郡上宝村(现高山市上宝町)宮原,以五十猛神为主神,祭祀大山祇大神・宇迦之御魂神・菊理姫命(与白山比咩・丰受大神・宇迦之御魂神是同一神)。五十猛神和菊理姬命是夫妻神,是我国天孙族的祖神。另外,还有一个同名的栗原神社,位于古川町上町。
                  以上、荒城郡所在の式内社五座のうち、最北の神岡町に鎮座の大津神社とそれに近い栗原神社を除くと、残り三社は中央部の古川町・国府町辺りにあって、後ろの四社では水神祭祀か天孫族祖神を祀ることに特徴がある。
                  以上,在位于荒城郡的五座式内社中,除了位于最北端的神冈町的大津神社和附近的栗原神社外,其余三座神社位于中央部的古川町・国府町附近,后面四座神社的特点是特征是祭祀水神或天孙族祖神。
                  大野郡所載の式内社三社のうちでは、水無神社を除くと、次の二社である。
                  大野郡所载的式内社三社中,除了水无神社以外,有以下两家。
                  (5) 槻本神社  丹生川村(現高山市)山口字月本にあって、大山祇神・櫛御氣野神(熊野神)・建御名方刀美神(諏訪神)夫妻を祀る。主神は大山祇神とも保食神ともいうが、もと月本明神といった由来から考えて、月神に通じる豊受大神や罔象女神すなわち保食神とするのが妥当か。「槻」はケヤキの木であるが、これに着目すれば樹木神の五十猛神に通じるし、この神を祀る伊太祁曽神社・乗鞍神社が丹生川流域に多く分布するという事情もある。
                  (5) 槻本神社  位于丹生川村(现高山市)山口字月本,祭祀着大山祇神・栉御气野神(熊野神)・建御名方刀美神(诹访神)夫妻。主神既称为大山祇神也称为保食神,从原本的月本明神的由来考虑的话,将其作为与月神有联系的丰受大神或罔象女神,即保食神是否妥当。「槻」是榉树,从这个角度来看和树木神的五十猛神有联系,也有祭祀这个神的伊太祁曽神社・乘鞍神社分布在丹生川流域的情况。
                  なお、大山祇神は栗原神社にも関係するが、どの地でもよく混用される大山咋命(鴨族の祖神)からの転訛ではなかろうか。上記貴船神社では大山咋神を配祀している事情にもある。
                  另外,大山祇神和栗原神社也有关系,是不是在任何地方都经常被混用的大山咋命(鸭族的祖神)的发音的变化呢。上述的贵船神社也有配祭大山咋神的情况。
                  (6) 荏名神社 高山市江名子町にあって高皇産霊神を祀るとされる。もと荒神宮とも子安大明神とも称されたというから、前者なら五十猛神、後者なら女神で美濃国不破郡赤坂の子安神に通じそうである。同じ江名子町内の荒神社も論社となっている。
                  (6) 荏名神社 位于高山市江名子町,被认为是祭祀高皇产灵神。据说原本被称为荒神宫和子安明神,前者可称为五十猛神,后者可称为女神,似乎与美浓国不破郡的子安神有联系。同在江名子町内的荒神社也是论社。
                  こうして飛騨の式内社全てを通観してみると、荒城・大野両郡ともに同様な傾向をもっており、海神族出自の尾張氏族に関係するような神々の祭祀は、延喜頃にはなかったことが分かる。おそらく、ここで取り上げた六社はいずれも飛騨国造一族が奉斎した神社とみられる。国史見在社のなかでも、『三代実録』に見える彦度瀬神(貞観九年)は国府町広瀬町の度瀬神社に比定され、渡瀬の神で水神につながるし、剱緒神(元慶元年)は国府町三川の剱緒神社に比定されて剣神天目一箇命かとみられ、賀茂若宮神(元慶五年)は飛騨市神岡町殿字ヲカモの加茂若宮神社であって、いずれも上記式内社の奉斎神の傾向と変わらない。
                  这样,纵观飞騨式内社的全部情况,荒城・大野两郡都具有同样的倾向,与海神族出身的尾张氏族有关的众神的祭祀,在延喜是没有的。恐怕、这里列举的六社是最被飞騨国造一族奉斋的神社。在国史见在社中,『三代实录』中可见的彦度瀬神(贞观九年)被国府町广濑町的度濑神社比定,渡濑的神与水神相连,剑绪神(元庆元年)被国府町三川的剑绪神社比定,被认为是神天目一个命,贺茂若宫神(元庆五年)是在飞騨市神冈町殿字ヲカモ的加茂若宫神社,无论哪一个都和上述的式内社的奉斋神的倾向没有变化。


                  IP属地:浙江9楼2020-12-01 23:39
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                    飛騨には氏子をもつ神社が四五〇ほどあって、そのうち四分の一強が白山社と最も多い。式内社でも国史見在でもないが、有力社とみられるなかに、鴨族関係の松尾神社・日枝神社(高山市城山にあって大山咋神を祭祀)があり、江名子には賀茂神社、国府町上広瀬に加茂神社がある。五十猛神を祀る神社も旧丹生川村に十五社の多くを数え、伊太祁曽宮(高山市丹生川町旗鉾)が中心とされる。さらに森八幡神社・一位森八幡神社などもある。
                    飞騨有约450个拥有氏子的神社,其中四分之一的神社为白山社,数量最多。既不是式内社也不是国史见在,被认为是有实力的神社中,有鸭族关系的松尾神社・日枝神社(祭祀在高山市城山的大山咋神)),江名子有贺茂神社,国府町上广濑有加茂神社。祭祀五十猛神的神社在旧丹生川村也有十五家神社,以伊太祁曽宫(高山市丹生川町旗矛)为中心。此外还有森八幡神社・一位森八幡神社等。
                    また、地名でも高山盆地・古川盆地を貫流する宮川の別名が加茂川とされる。その由来は、建武の中興に功績のあった飛騨国司姉小路家綱が、平安京にならって野中に賀茂神を祀り小島城を築き、その山々を東山、北の峰を北野嵯峨山、城下の細江川を賀茂川と名づけられたともいわれるが、上記の神社や闘鶏楽などに見られる鳥類がらみの祭事もあって、古代からの鴨族のいわれがあったのではなかろうか。
                    另外,在地名上贯穿高山盆地・古川盆地的宫川又名为加茂川。据说其由来是,建武的中兴中有功绩的飞騨国司姉小路家纲,效仿平安京在原野上建造了祭祀贺茂神的小岛城,将这些群山命名为东山、北的峰命名为北野嵯峨山、城下的细江川命名为贺茂川,在上述的神社和闘鸡乐等出现了以鸟类为主的祭祀活动,自古以来的鸭族的说法是否存在呢。
                    木工猪名部の系譜(木工猪名部的系谱)
                    奈良の東大寺建立は、聖武天皇の天平十七年(七四五)から開始されたが、その際、木工寮長上・大工(棟梁)として猪名部〔いなべ〕百世が、少工(副棟梁)のち大工として益田縄手が現場の指揮を執って、完成された。この世界最大の木工建築物は、当時の技術の粋を集めたものであった。百世はその功で外従五位下に叙せられたが、「大仏殿碑文」には大工・従五位下とあり、また従四位下で伊勢守兼東大寺領掌使に任ぜられたともいわれる。
                    奈良的东大寺建设始于圣武天皇天平十七年(745年),当时木工寮长上•大工(栋梁)猪名部〔いなべ〕百世,在少工(副栋梁)之后作为大工的益田绳手的现场指挥下,完成了工程。这个世界上最大的木工建筑物,汇集了当时技术的精华。百世因其功绩被封为外从五位下,在「大佛殿碑文」中被称为大工、从五位下,而且在从四位下时还被任命为伊势守兼东大寺领掌使。
                    猪名部氏が古代に建築技術に優れ、雄略朝十三年には木工として見える葦那部〔いなべ〕真根が高楼を作るなど木工技術集団として『日本書紀』に登場する。猪名部は世界最古の木造建築物である法隆寺や石山寺、興福寺、飛鳥寺などの建立にも関与したとされる。天平六年には木工の猪部多婆理(「猪名部」の欠落ないし簡便表記か)も見える。猪名部には新羅から渡来の外来系もあったが(『書紀』応神三一年条)、「天孫本紀」には物部連の祖神・饒速日命が率いた者のなかに「為奈部等の祖天都赤星」も見えるから、神別のイナベもあった。
                    猪名部氏在古代建筑技术很优秀,雄略朝十三年,作为木工的苇那部〔いなべ〕真根建造高楼等,作为木工技术集团在『日本书纪』中登场。据说,猪名部还与世界最古老的木造建筑法隆寺、石山寺、与福寺、飞鸟寺等的建立有关。天平六年可以看到木工的猪部多婆理(「猪名部」的缺失或简便标记)。猪名部虽然也有从新罗引进的外来系(『书纪』应神三一年条) ,「天孙本纪」中也能看到猪名部的祖神・饶速日命率领的人物之一「為奈部等の祖天都赤星」,所以还存在神别的猪名部。
                    (注:饶速日命,即为邇芸速日命(にぎはやひのみこと)。为天津神,为太阳神。根据『日本书纪』等记述,在神武东征之前,天照大神授予十种神宝,饶速日命乘天磐船从天而降,到达河内国(今大阪府交野市),而后移居大和国(今奈良县)。传说为物部氏、穗积氏、尾张氏、海部氏、熊部氏、熊野国造的祖神。)
                    猪名部は北伊勢の員弁郡に居住したが、郡名の「員弁」は猪名部が転じての表記である。奈良時代の神護景雲三年五月には、員弁郡人の猪名部文麻呂が見えて、白鳩を献じたことで爵二級を進められている(後記の財麿の同族か)。員弁郡には式内社の猪名部神社があり、その論社が現三重県員弁郡東員町北大社、及びいなべ市藤原町長尾に鎮座する。その主祭神を伊香我色男命とするのは、この者が猪名部氏の祖とされるからである(後述)。
                    猪名部居住在北伊势的员弁郡,郡名的「员弁」是猪名部转换后的记载。在奈良时代的神护景云三年五月,能看到员弁郡人的猪名部文麻吕,因为献了白鸠而被升了爵二级(是后记的财麿的同族吗)。在员弁郡有式内社的猪名部神社,那家论社现在位于三重县员弁郡东员町北大社,以及名古屋市藤原町长尾。这个主祭神为伊香我色男命,因为这个人被认为是猪名部氏的祖先(后述)。
                    員弁郡領家は猪名部造氏であった。その家から出た善縄は、員弁郡少領猪名部造財麿の孫で、周防大目従八位下豊雄の子であるが、都で立身して文学博士となって『続日本後記』二十巻を著わし、遂には参議式部大輔従三位まで昇進して、春澄朝臣の姓氏を賜った。春澄善縄の妻は橘朝臣島田麻呂の娘であり、その娘の高子(洽子)は清和天皇から醍醐天皇までの五代の天皇に仕えて掌待さらに典侍従三位にまで昇っている。この春澄朝臣高子が官稲千五百束を賜って氏神の猪名部神社に奉納したことが『三代実録』貞観十五年(八七三)条に記される。
                    员弁郡领家是猪名部造氏。从这个家里出来的善绳,是员弁郡少领猪名部造财麿的孙子,是周防大目从八位下丰雄的儿子,在都城立身成为文学博士,著有『续日本后記』二十卷,最终升至参议式部大辅从三位,被赐于了春澄朝臣的姓氏。春澄善绳的妻子是橘朝臣岛田麻吕的女儿,他的女儿高子(洽子)侍奉从清和天皇到醍醐天皇的五代天皇,升至典侍从第三位。『三代实录』贞观十五年(873年)条中记载了,这个春澄朝臣高子赐予的官稻一千五百束供奉在氏神的猪名部神社。
                    春澄善縄の男子としては従五位上鋳銭長官兼周防守の具瞻、及び縫殿頭従五位下の魚水の二名が知られる。その後裔は不明となるが、鎌倉初期に活動して『東鑑』に見える員部大領家綱、員弁進士三郎行綱(家綱の子という)は善縄の族裔となろう。行綱にやや遅れて見える猪名部重員は、天福元年(一二三三)の多度神社神主と『大日本史料』に記される。また、具瞻・魚水兄弟の同時代に活動した者として猪名部造有吉がおり、木工大允として元慶八年(八八四)に外従五位下に叙位されている。
                    作为春澄善绳的儿子,从五位上铸钱长官兼周防守的具瞻,以及缝殿头从五位下的鱼水这两位广为人知。虽然其后裔不明,但在镰仓初期活动,在『东鉴』中看到的员部大领家纲、员弁进士三郎行纲(称为家纲之子)应该是善绳的族裔。在『大日本史料』中记载,看上去比行纲稍晚的猪名部重员,是天福元年(1233年)的多个神社的神主。另外,猪名部造有吉是与具瞻、鱼水兄弟在同一时代活动的人,作为木工大允在元庆八年(884年)被任命为外从五位下。
                    猪名部を管掌する猪名部造が物部連一族とされるのは、雄略十八年に伊勢の朝日郎〔あさけのいらつこ〕が反乱を起こした事件に因む。すなわち、その当時、伊勢の猪名部は物部菟代宿祢が管掌していたが、この反乱を収拾できなかったため、かわって物部目連がこれを退治したので、菟代宿祢が持つ猪名部を目連に賜わったとされる(『日本書紀』)。『姓氏録』左京神別によれば、猪名部造は物部と同祖の伊香我色男命から出たとされる。とはいえ、伊香我色男命から猪名部造豊雄までに至る系譜・歴代は不明であり、そこに系譜仮冒が起こりうる。明治期の鈴木真年は、物部五十琴宿祢の子の石持連の子に菟代宿祢を置いて、これが猪名部造・春澄朝臣の祖と記すが(『史略名称訓義』)、菟代宿祢の具体的な子孫は記さず、「天孫本紀」でも猪名部造の系譜は明確には記されない。
                    掌管猪名部的猪名部造之所以被称为物部连氏一族,是因为雄略十八年伊势的朝日郎〔あさけのいらつこ〕发动叛乱的事件。也就是说,当时、伊势的猪名部由物部氏十菟代宿祢掌管,但由于无法收拾这场叛乱,反而由物部氏目连战胜了,所以将菟代宿祢所拥有的猪名部赐给了目连(『日本书纪』)据『姓氏录』左京神别分析,猪名部造出自与物部氏同祖的伊香我色男命。话虽如此,从伊香我色男命到猪名部造丰雄的系谱・历代不明,而且系谱假冒也有可能发生。明治时期的铃木真年,在物部五十琴宿祢之子的石持连之子上设置为菟代宿祢,将其记为猪名部造・春澄朝臣的祖先(『史略名称训义』),但是菟代宿祢没有具体的子孙记载,在「天孙本纪」中也没有明确记载猪名部造的系谱。
                    こうした事情から見れば、猪名部造が物部連一族の出であったことは、多分に疑う要素がある。少なくともその配下の猪名部については、物部とは別族であった可能性が出てくる。というのは、鴨族の美濃への移動経路が近江国永源寺小椋谷(旧愛知郡小椋村蛭谷)の木地師本拠地を経て、八風街道を通じ山越えで伊勢に入るというコースをたどったとみられ、伊勢に入った地が員弁郡であるからである。しかも、東員町北大社の猪名部神社の近隣には「鳥取」という地があり、この地に式内社鳥取神社の論社もある。員弁郡には鴨族に特徴的な笠間郷もあって、この地の戸主として猪名部美久が「正倉院文書」(天平十六年)に見える。
                    在这种情况下,猪名部造出身于物部连家族这件事,多少有可疑的要素。至少其属下的猪名部,有可能与物部氏是不同的族人。之所以这么说,因为鸭族前往美浓的移动路径,是通过近江国永源寺小椋谷(旧爱知郡小椋村蛭谷)的木地师根据地,通过八风街道越过山进入伊势的路线,而进入伊势的地方是员弁郡。而且,东员町北大社的猪名部神社附近有一个叫「鸟取」的地方,在这里还有式内公司神鸟取神社的论社。员弁郡中还有鸭族特有的笠间乡,「正仓院文书」(天平16年)中能看到作为此地的户主猪名部美久。
                    鳥取神社の論社は、いなべ市大安町門前にもある。同郡の式内社を見ても、鳥取山田神社(員弁郡東員町山田)、鴨神社(いなべ市大安町丹生川上)、賀毛神社(いなべ市北勢町垣内)があって、鴨族・鳥取部の祭祀する有力古社がきわめて多い。飛騨の丹生川村は両面宿儺に縁の深い土地であったが、伊勢の員弁郡丹生川上に鴨神社が鎮座するのも興味深い。
                    鸟取神社的论社,位于伊那市大安町门前。从同郡的式内社来看,有鸟取山田神社(员弁郡东员町山田)、鸭神社(いなべ市大安町丹生川上)、贺毛神社(いなべ市北势町垣内) ,祭祀鸭族・鸟取部的有力古社非常多。飞騨的丹生川村虽然是与两面宿傩有着浓厚缘分的地方,但鸭神社坐镇位于伊势的员弁郡丹生川,这点也非常有趣。
                    これらの諸事情からみると、伊勢の木工集団・猪名部と飛騨の木工集団たる飛騨匠とは同根同族であって、ともに鴨族の流れを汲んだ可能性が大きいし、猪名部の管掌氏族たる猪名部造も、実際の系譜は猪名部と同様であったとみるほうが自然である。
                    从这些情况来看,伊势的木工集団・猪名部与飞騨的木工集団的飞騨匠是同根同族,一样汲取了鸭族的流派的可能性很大,是猪名部的掌管氏族的猪名部造,也认为实际的系谱与猪名部相同比较自然。


                    IP属地:浙江10楼2020-12-01 23:42
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                      越前の木工・木地師(越前的木工・木地师)
                      話を少し戻して、東大寺や石山寺の建立のときに活躍した益田縄手は、後に連姓を賜り、従五位上まで昇叙された。縄手の出自は、『続日本紀』に越前国足羽郡の人と見えるが、飛騨南部に益田郡益田郷があり(益田郡は貞観十二年〔八七〇〕に大野郡より分置)、この地ないし近江国浅井郡益田郷から先祖が越前に遷住した飛騨国造一族関係者の出だと推定しても、あまり無理はなさそうである。『万葉集』に見える歌の詞「飛騨人の打つ墨縄」に通じそうな名前である。足羽郡には足羽郷戸主として猪名部張人も居た(天平神護二年十月越前国司解)。さらに、次ぎにあげる木地師の分布事情もある。
                      话说回来,在东大寺和石山寺的建立时非常活跃的益田绳手,后来被赐予连姓,升至了从五位上。绳手的出身,在『续日本纪』中被认为是越前国足羽郡的人,飞騨南部有益田郡益田乡(益田郡在贞观十二年(870年)由大野郡分置),即使推测祖先是从近江国浅井郡益田乡迁居到越前的飞騨国造一族相关人员的出身,似乎也不是不可能。这个名字可能与『万叶集』中的歌词「飛騨人の打つ墨縄」有联系。足羽郡有以足羽乡户主的身份居住的猪名部张人(天平神护二年十月越前国司解)。此外,还有下列木地师的分布情况。
                      加賀国江沼郡を流れる大聖寺川の遥か上流付近で、越前・加賀の国境に近く加賀側に位置する地には、真砂村(現加賀山中温泉真砂町)という木地師たちの村があった。古九谷の窯場で知られる九谷村(現加賀山中温泉九谷町)よりさらに奥地であるが、近くに水無山という地名が見えることも興味深い。越前永平寺の北方近隣にあり、永平寺から九頭竜川を下れば足羽郡となる。永平寺あたりは大野郡であったが、越前において木地師が活動した主な地域として、大野郡や丹生郡山地などが木地師の「氏子狩帳」に拠りあげられている(『福井県史 通史編2』)。
                      在流经加贺国江沼郡的大圣寺川的遥远上游附近,位于越前・加贺的国境附近加贺侧的地方,有一个叫做真砂村(现加贺山中温泉真砂町)的木地师们的村子。虽然这里比以古九谷窑场闻名的九谷村(现加贺山中温泉九谷町)更偏僻,但是附近还能看到水无山这个地名也很有意思。位于越前永平寺的北方附近,从永平寺下到九头龙川就是足羽郡。永平寺一带虽然是大野郡,但越前是木地师活动的主要地区,大野郡和丹生郡山地等地有木地师的「氏子狩帐」(『福井县史 通史编2』)。
                      木地師の由緒や支配などを記したいわゆる木地屋文書には、大野郡の小沢村に居住していた小椋幸男家、同郡川合村の平野治右衛門家などの各家文書がある。また、足羽郡木田の長慶寺は、今立郡池田、南条郡今庄、加賀山中などの木地師集団を門徒に持ったという事情もある。池田や今庄へは美濃の徳山谷からつながる。池田の稲荷にある式内社の須波阿須岐神社は倉稲魂神などを祀るが、『美濃国神名帳』に土岐郡にあげられる旧日吉村の正一位酒波大神に通じるものか。「酒波」とは、大嘗祭に黒酒・白酒を醸す長(造酒児)の助手として奉仕する女をいう(『神道大辞典』)から、この神は豊受大神・白山比咩につながるし、酒造神たる松尾神(少彦名神)にもつながる。
                      记载木地师由来和支配等内容的所谓木地屋文书中,有居住在大野郡的小沢村的的小椋幸男家、同郡川合村的平野治右卫门家等各家文书。另外,足羽郡木田的长庆寺,为今立郡池田、南条郡今庄、加贺山中等木地师集团的门徒所把握的情况。池田和今庄从美浓的德山谷开始相连。位于池田的稻荷的式内社的须波阿须岐神社虽然祭祀仓稻魂神等,会与在『美浓国神名帐』提到的土岐郡的旧日吉村的正一位酒波大神有联系吗。「酒波」,是指在大尝祭上作为酿造黑酒、白酒(造酒儿)的助手而服务的女性(『神道大辞典』),这个神与丰受大神・白山比咩相连,也与作为酒造神的松尾神(少彦名神)有联系。
                      戦国時代の天文十一年(一五四二)に越前の朝倉義景の軍勢が徳山谷・根尾谷を経路として美濃に侵入してきて、斎藤道三の兵と杉原(揖斐郡揖斐川町北部)の辺りで戦ったともいわれるから、美濃の根尾谷から越前に至る経路もあって、古代から木地師がこれを利用して美濃から直接、越前に入った要素もある。美濃と越前との交通路は、①『美濃諸旧記』に見える根尾谷を遡って温見峠越え、②揖斐川を遡って徳山谷経由、という道が古代から通じており、旧徳山村と福井県南越前町東端部の瀬戸との峠道で、美濃の木地師が切り開いたとされる木地師街道もある。瀬戸の付近にも、また温見峠の東南にも、木地師に特徴的な小倉谷という地名が見える。
                      战国时期的天文十一年(1542年) ,越前的朝仓义景的军队通过德山谷・根尾谷侵入美浓,据说与斋藤道三的士兵在杉原(揖斐郡揖斐川町北部)附近作战,也有从美浓的根尾谷到越前的路径,从古代开始木地师就有利用这个,从美浓直接进入越前的要素。美浓和越前的交通路线,①『美浓诸旧记』中可见的经由根尾谷越过温见峠,②揖斐川经由德山谷的道路,从古代开始就有,在旧德山村和福井县南越前町东端部的濑户之间的山顶的路上,也有美浓的木地师开辟的木地师街道。无论是濑户的附近,还是温见峠的东南,都能看到木地师特有的小仓谷这个地名。
                      一応のまとめ-武儀国造と水神(暂时总结-武仪国造和水神)
                      飛騨国造の系譜を検討してみたら、周辺隣国への予想もしなかった地域的拡がりがいくつかの分野で見えてきたが、上古ないし古代において、木地師集団の活動が飛騨地域に大きな影響を与えたこと、これが山間僻地の一国造の系譜検討に止まるものではないことを如実に感じた次第である。
                      对飞騨国造的系谱进行研究后发现,对周边邻国出现了没有预想到的地域性扩散现象,逐渐感受在上古或古代,木地师集团的活动给飞騨地区带来的很大影响这件事,不仅仅是对山间偏僻地区的一国造的系谱研究就能讲清楚的。
                      飛騨には鴨族など天孫族の神々を祀る古社が多いことも分かった。その一方、海神族の神々や尾張連の奉斎した神々を祀る古社は殆どない状況であった。そうしてみると、飛騨国造の初祖とされる大八椅命が、男系では海神族尾張氏の出ということはまずありえない。三野国造に実質的につながる八坂入彦の生母が尾張大海媛だと崇神紀に見えても、地域的には飛騨と尾張との結びつきはいかにも唐突だとみられる(早川万年氏「美濃と飛騨の国造」に同旨。ただし、尾張連同族から守部連が出ているようで、「オキツヨソ」は飛騨国造の母系の祖先に位置した可能性は残る。「守部」は美濃・尾張に多く分布し、加賀の白山社祠官にも守部が見える)。「八坂入彦」も、本来は王族でなかった可能性がある。
                      飞騨中有很多祭祀鸭族等天孙族的众神的古社。另一方面,几乎没有祭祀海神族的神或奉斋尾张连的众神的古社。从这一点来看,被认为是飞騨国造的始祖的大八椅命,在男系中几乎不可能是海神族尾张氏的出身。据崇神纪,与三野国造有实际联系的八坂入彦的生母是尾张大海媛,但从地域上看,飞騨与尾张的联系被认为太过唐突(早川万年氏「美浓与飞騨的国造」。但是,由于尾张连同族中出现了守部连,因此也存在「オキツヨソ」(即为瀛津世袭)是飞騨国造的母系的祖先的可能性。「守部」多分布于美浓・尾张,在加贺的白山社祠官也能看到守部)。「八坂入彦」,也有可能原本不是王族。
                      鴨族との関連からいっても地域近隣からいっても、飛騨国造は、美濃の本巣国造との系譜関係を考えるのが自然である。飛騨木地師の本拠・丹生川村の地名も、美濃木地師の本拠であった本巣郡根尾谷が「二王谷」とも書くから、もとの語が丹生であって(旧徳山村には水銀鉱山や門丹生・入谷・戸入という地名もあった。「ネウ・根尾」は鉄ともいう)、通じ合う。これは井塚政義氏の『和鉄の文化』でも指摘されており、岐阜県の薄墨の桜のある根尾谷にも木曽谷の馬籠にも、木地師に特徴的な小椋姓が見える。
                      无论从和鸭族的关系还是从附近地区来看,会考虑到飞騨国造与美浓的本巢国造的系谱关系是很自然的。飞騨木地师的根据地・丹生川村的地名,也是美浓木地师的根据地的本巢郡根尾谷写作「二王谷」,原来的词是丹生(旧德山村也有水银矿山或门丹生・入谷・户入等地名。「ネウ・根尾」也被称为铁),是相通的。这在井冢政义氏的『和铁的文化』中也被指出,在岐阜县有薄墨的樱的根尾谷或木曽谷的马笼中,都能看到木地师特征性的小椋姓。
                      そうした同族関係が考えられるにもかかわらず、尾張氏が飛騨国造と結びつけられた事情も考えてみる。その場合、大八椅命が「彦与曽命」の子とされることが基礎にあって、彦与曽命の名前の類似から父祖としての尾張氏祖の瀛津世襲命が飛騨国造の系譜のなかに導かれたのではなかろうか。飛騨一宮神主を引き継いだ森氏も、おそらく飛騨国造の同族であって、本巣国造や武儀国造と同族の守君の後裔だとみられる。もともとが関の「守」で、「毛利、毛里、母里、母理」とも表記されても、木地師との縁由の深さから表記が総じて「森」と書かれるようになったものであろう。
                      尽管考虑到了这样的同族关系,还是试着思考尾张氏与飞騨国造有所联系的情况。在这种情况下,以大八椅命是「彦与曽命」之子为基础,因为彦与曽命的名字有相似之处,作为其父祖的尾张氏祖的瀛津世袭命是不是被引导到飞騨国造的系谱中呢。据推测,继承飞騨一宫神主的森氏,恐怕也是飞騨国造的同族,是本巢国造和武仪国造同族的守君的后裔。原本是关的「守」字,虽然也写作「毛利、毛里、母里、母理」,但由于与木地师的渊源很深,总的来说写作「森」。
                      こう考えれば、世代対応のなかで彦与曽命の父としては、三野本巣国造の初祖・神大根命が考えられる。実際には神大根の孫くらいに推定される押黒ノ弟彦王(牟宜都君・守君の祖)が「彦与曽命(=八坂入彦か兄弟)」の近親(従って、子くらいか)に位置づけられる。この辺の親族関係は当面の推定でしかないが、本巣国造・武儀国造・飛騨国造は近い同族であって、武儀国造の領域に連なって飛騨国造が位置したのも自然である。『延喜式』の官道では、美濃国内の加茂駅・武義駅を経て飛騨に入り、下留駅(下呂)などを経て飛騨国府に至る路程となっている。森氏が飛騨に在ったのも自然であって、国府町宮地の東隣には丹生川町森部の地名が見える。
                      这样考虑的话,在世代对应中,彦与曽命之父便是三野本巢国造的始祖・神大根命。实际上,被推测为神大根的孙子的是押黒ノ弟彦王(牟宜都君・守君的祖)被定位为「彦与曽命(=八坂入彦也许是兄弟)」的近亲(因此、大约是孩子)。虽然这一带的亲属关系只是暂时的推测,但本巣国造・武仪国造・飞騨国造是相近的同族,在武仪国造的领域连接飞騨国造也是自然的。在『延喜式』的官道中,有经美浓国内的加茂站・武仪站进入飞騨,经过下留站(下吕)等到达飞騨国府的路程。森氏在飞騨也是很自然的,在国府町宫地的东侧可以看到丹生川町森部的地名。
                      美濃に目を転じれば、武儀郡水成村(現関市富之保あたり)には、南宮神社(富之保字水成。三野前国造が奉斎した南宫大社の分祀か)と東に小山を隔てて水無神社(富之保字岩臼)も鎮座する。飛騨一宮水無神社より宝亀五年(七七五)に遷座されたという所伝があるが、相互に縁がある地域とみられる。
                      如果将目光转向美浓,在武仪郡水成村(现关市富之保附近),南宫神社(富之保字水成。奉斋三野前国造的南宫大社的分祀吗)和东边隔着小山的水无神社(富之保字岩臼)也镇座着。有宝龟五年(775年) 飞騨一宫水无神社迁至于此的的传说,看来是相互有缘的地区。


                      IP属地:浙江11楼2020-12-01 23:44
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                        飛騨一宮たる水無神社の祭神も、飛騨国造の系譜が少彦名神の流れを汲む三野本巣国造と同系であれば、実体はおそらく白山比咩たる水神・罔象女神(わが国天孫族の祖神・五十猛神の妻神)とするのが妥当ではあるまいか。関市の水無神社は「高照光姫命」を祭神とするが、これが後に天照大神にも転訛した豊受大神・罔象女神である。まさに水主の女神であるが、「水主」が尾張連同祖という系譜を伝える水主直につながるものでもない。飛騨に多い白山神祭祀の源流が水無神社にあったとみられる。
                        作为飞騨一宫的水无神社的祭神,如果飞騨国造的系谱和汲取少彦名神的流派的三野本巢国造是同一系的话,那么实际上恐怕就是白山比咩水神・罔象女神(我国天孫族的祖神・五十猛神的妻神),这样看待是否妥当呢。关市的水无神社将「高照光姫命」作为祭神,这是后来由天照大神转变为的丰受大神・罔象女神。确实是水主的女神,「水主」也不能直接联系到尾张连同祖这个系谱所传说的水主。一般认为飞騨很多的白山神祭祀的源头是水无神社。
                        本巣国造の同族には武儀国造や賀茂県主があったが、武儀国造一族の牟義都首が宮中で行われる若水汲みの「主水の祭事」に主役を務めたことが『延喜式』主水司式に見えており、山城の鴨県主一族は、主水司に水部として奉仕したことがその系図(『賀茂神官鴨氏系図』など)から知られる。奈良時代の大宝二年(七〇二)の加毛郡半はに布ふ里(『和名抄』の賀茂郡埴生郷)の戸籍には、水取部を氏の名とする者が数人見える。なお、水無神の隠された実体が両面宿儺ではないかという尾関章氏の指摘があるが(『濃飛古代史の謎』)、この者も飛騨国造一族の祖先神として併せて秘かに祀られた可能性がある。
                        本巢国造的同族中有武仪国造和贺茂县主,武仪国造一族的牟义都首在宫中举行的若水汲的「主水的祭事」中担任主角,在『延喜式』的主水司式中可以看到,山城的鸭县主一族作为水部为主水司服务,这件事从这个系图(『贺茂神官鸭氏系图』等)可以看出。奈良时代的大宝二年(702年)的加毛郡半布里(『和名抄』的贺茂郡埴生乡)的户籍上,可以看到几个人把水取部的氏作为名。另外,尾关章氏指出水无神所隐藏的实体是否为双面宿傩(『浓飞古代史的谜』),这个人也有可能是作为飞騨国造一族的祖先神一起被秘密祭祀。
                        こうした飛騨国造の系譜を取り上げて見ても、「国造本紀」の記事は、一つ一つ個別具体的に十分に検証していく必要があることも、これで分かってくる。八賀晋・和田萃両氏は、「尾張氏の一族が飛騨に進出し国造に任命された可能性が高い」という見解をもっているが(『飛騨』所収の藤本健三氏「飛騨の古墳時代」)、これは「国造本紀」など『旧事本紀』の記事に拠りすぎである。結論的には、そうとは言えないし、文献資料の表面的な検討で済ませてはいけない。端的な文献がなくとも、祭祀・地名・伝承や考古学的知見など多くの視点から、古代史の総合的具体的に検討はなしうるのである。
                        从这些飞騨国造的系谱来看,「国造本纪」的消息也需要逐个具体地进行充分的验证。八贺晋・和田萃两氏认为,「尾张氏一族进入飞騨并被任命为国造的可能性很高」(『飞騨』所收的藤本健三氏「飞騨的古坟時代」),这是太过根据「国造本纪」等『旧事本纪』的消息了。结论上,不能说是那样,也不能通过文献资料的表面性的研究来结束。即使没有明确的文献,也可以从祭祀・地名・传承或考古学知识等多个角度,对古代史进行综合性的具体研究。
                        多少蛇足かもしれないが、もう少し敷衍して検討地域を広げて考えていけば、美濃の東隣に位置する信濃国伊那郡の木曽谷には最も由緒ある神社として水無神社と御獄神社があり、前者は飛騨から勧請されたと伝え、木曽福島町伊谷にあって高照姫を祀る。木曽は古くは美濃国恵那郡に属した地で、白山神社(木曽郡大桑村殿)も、美濃一宮と同じ南宮神社も、各々が木曽谷にも伊那谷にもある。そうすると、木曽につながる伊那郡の伊那も、猪名部か稲(豊受大神・白山神が稲荷神)に由来したことが推される。木曽にも、木地師の里が岐阜県境に近い吾妻(長野県木曽郡南木曽町南部)にあって小椋という苗字も見られる。ここは妻籠宿の付近であり、木曽川の渓谷となる。ヒノキ・サワラなどの美林で古来知られており、木曽の地名も「木祖」にあったという所伝を故なしとしない。
                        也许多少有些画蛇添足,但是如果再进一步扩大研究地域来考虑的话,位于美浓的东邻的信浓国伊那郡的木曽谷,有最有历史的神社的水无神社和御狱神社,前者是从飞騨勧请的,在木曽福岛町伊谷祭祀高照姬。木曽古时候是属于美浓国惠那郡的地方,白山神社(木曽郡大桑村殿) ,与美浓一宫一样的南宫神社,每个在木曽谷或伊那谷都有。这样的话,可以推测与木曽有联系的伊那郡的伊那,也是来源于猪名部或稻(丰受大神・白山神或稻荷神)。在木曽,距离木地师之乡的岐阜县境很近的吾妻(長野县木曽郡南木曽町南部)小椋这样的名字也能看见。这里是妻笼宿的附近,将成为木曽川的峡谷。自古以来以日本扁柏・鲅鱼等的美林而闻名,而木曽的地名也在「木祖」中出现过,传说并不是没有缘故的。
                        さらに検討の視点を全国的に拡げれば、上古における美濃地域の政治的重要性など思いがけないことも多々出てくるが、ここではその導入としての検討を紹介する次第である。
                        如果进一步将研究的视点扩大到全国范围的话,例如上古时美浓地区在政治上的重要性等,会出现很多意想不到的事情,所以在此介绍作为将其引入的研究。
                        (二〇〇九年八月に一応、整理)
                        (2010.5.18 掲上)
                        May 18,2010


                        IP属地:浙江12楼2020-12-01 23:44
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                          因为本人对日本历史与神话了解不多,这周是一边查资料一边翻译的,可能会有些地方翻得不好,请见谅。不是发图片的话,应该不怎么会被贴吧吞楼层吧?如果文字版还是不见了,@ 我就好。下面是百度网盘的原文件。
                          链接:https://pan.baidu.com/s/1NwL31i4ernPJVb1I6IFXJg
                          提取码:lmsn
                          复制这段内容后打开百度网盘手机App,操作更方便哦


                          IP属地:浙江13楼2020-12-01 23:55
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                            这样的话,感觉「宿傩」的故事会有很多展开,而且大爷没准会成为超——有魅力的角色


                            IP属地:陕西来自Android客户端14楼2020-12-02 00:10
                            收起回复
                              ...太厲害了


                              IP属地:中国台湾来自Android客户端15楼2020-12-02 00:38
                              收起回复