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【日文原版】人间失格

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《人间失格》
作者:太宰治
语种:日文原版


IP属地:湖北1楼2010-11-29 13:56回复
    【第一の手记】
       耻の多い生涯を送って来ました。
       自分には、人间の生活というものが、见当つかないのです。自分は东北の田舎に生れましたので、汽车をはじめて见たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停车场のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが线路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停车场の构内を外国の游戯场みたいに、复雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、设备せられてあるものだとばかり思っていました。
       しかも、かなり永い间そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜(あかぬ)けのした游戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が线路をまたぎ越えるための颇る実利的な阶段に过ぎないのを発见して、にわかに兴が覚めました。
       また、自分は子供の顷、絵本で地下鉄道というものを见て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の车に乗るよりは、地下の车に乗ったほうが风がわりで面白い游びだから、とばかり思っていました。
       自分は子供の顷から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、挂蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装饰だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人间のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
       また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな马鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た时の空腹は全くひどいからな、甘纳豆はどう?
       カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発挥して、おなかが空いた、と呟いて、甘纳豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
       自分だって、それは勿论(もちろん)、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた记忆は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪华と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、无理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の顷の自分にとって、最も苦痛な时刻は、実に、自分の家の食事の时间でした。
    


    IP属地:湖北3楼2010-11-29 13:59
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         自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳(ぜん)を二列に向い合せに并べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの时など、十几人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。
      それに田舎の昔気质(かたぎ)の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪华なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の时刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ运び、押し込み、人间は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な颜をして食べている、これも一种の仪式のようなもので、家族が日に三度々々、时刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を顺序正しく并べ、食べたくなくても无言でごはんを噛(か)みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
         めしを食べなければ死ぬ、という言叶は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか闻えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人间は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言叶ほど自分にとって难解で晦渋(かいじゅう)で、そうして胁迫めいた响きを感じさせる言叶は、无かったのです。
         つまり自分には、人间の営みというものが未(いま)だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転辗(てんてん)し、呻吟(しんぎん)し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい时から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地狱の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比较にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には见えるのです。
         自分には、祸(わざわ)いのかたまりが十个あって、その中の一个でも、隣人が脊负(せお)ったら、その一个だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
         つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性质、程度が、まるで见当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解决できる苦しみ、しかし、それこそ最も强い痛苦で、自分の例の十个の祸いなど、吹っ飞んでしまう程の、凄惨(せいさん)な阿鼻地狱なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自杀もせず、発狂もせず、政党を论じ、绝望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?   エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と确信し、いちども自分を疑った事が无いんじゃないか?   それなら、楽だ、しかし、人间というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快(そうかい)なのかしら、どんな梦を见ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金?
         まさか、それだけでも无いだろう、人间は、めしを食うために生きているのだ、という说は闻いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言叶は、耳にした事が无い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に袭われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会话が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
         そこで考え出したのは、道化でした。
         それは、自分の、人间に対する最后の求爱でした。自分は、人间を极度に恐れていながら、それでいて、人间を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一线でわずかに人间につながる事が出来たのでした。おもてでは、绝えず笑颜をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危机一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
      


      IP属地:湖北4楼2010-11-29 14:01
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           自分は毎月、新刊の少年雑志を十册以上も、とっていて、またその他(ほか)にも、さまざまの本を东京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな驯染(なじみ)で、また、怪谈、讲谈、落语、江戸小咄(こばなし)などの类にも、かなり通じていましたから、剽軽(ひょうきん)な事をまじめな颜をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。
           しかし、呜呼(ああ)、学校!
           自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚(はなは)だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に见破られ、木っ叶みじんにやられて、死ぬる以上の赤耻をかかせられる、それが、「尊敬される」という状态の自分の定义でありました。
        人间をだまして、「尊敬され」ても、谁かひとりが知っている、そうして、人间たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた时、その时の人间たちの怒り、复讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
           自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の顷から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力车に乗って学校へ行き、学年末の试験を受けてみると、クラスの谁よりも所谓「できて」いるようでした。
        からだ具合いのよい时でも、自分は、さっぱり勉强せず、学校へ行っても授业时间に漫画などを书き、休憩时间にはそれをクラスの者たちに说明して闻かせて、笑わせてやりました。また、缀り方には、滑稽噺(こっけいばなし)ばかり书き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。
        或る日、自分は、れいに依って、自分が母に连れられて上京の途中の汽车で、おしっこを客车の通路にある痰壶(たんつぼ)にしてしまった失败谈(しかし、その上京の时に、自分は痰壶と知らずにしたのではありませんでした。子供の无邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな笔致で书いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、职员室に引き扬げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその缀り方を、他のクラスの者たちの缀り方の中から选び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて职员室にはいって読み终えたのか、颜を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを见とどけ、自分は、たいへん満足でした。
           お茶目。
           自分は、所谓お茶目に见られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの种でした。
           けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡(およ)そ対跖(たいせき)的なものでした。その顷、既に自分は、女中や下男から、哀(かな)しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人间の行い得る犯罪の中で最も丑悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。
        


        IP属地:湖北7楼2010-11-29 14:23
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          【第二の手记】
             海の、波打际、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い树肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩叶(わかば)と共に、青い海を背景にして、その绚烂(けんらん)たる花をひらき、やがて、花吹雪の时には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を镂(ちりば)めて漂い、波に乗せられ再び波打际に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている东北の或る中学校に、自分は受験勉强もろくにしなかったのに、どうやら无事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章(きしょう)にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
             その中学校のすぐ近くに、自分の家と远い亲戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に选んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の钟の鸣るのを闻いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
             生れてはじめて、谓わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な场所のように思われました。それは、自分のお道化もその顷にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解说してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉亲と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の难易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。
          俳优にとって、最も演じにくい场所は、故郷の剧场であって、しかも六亲眷属(けんぞく)全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名优も演技どころでは无くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者(くせもの)が、他郷に出て、万が一にも演じ损ねるなどという事は无いわけでした。
             自分の人间恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕动(ぜんどう)していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教师も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言叶では叹じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を张り上げる配属将校をさえ、実に容易に喷き出させる事が出来たのです。
             もはや、自分の正体を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背后から突き刺されました。それは、背后から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も贫弱な肉体をして、颜も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が圣徳太子の袖みたいに长すぎる上衣(うわぎ)を着て、学课は少しも出来ず、教练や体操はいつも见学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は认めていなかったのでした。
             その日、体操の时间に、その生徒(姓はいま记忆していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って见学、自分たちは鉄棒の练习をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な颜をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飞び、そのまま幅飞びのように前方へ飞んでしまって、砂地にドスンと尻饼をつきました。すべて、计画的な失败でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう嗫(ささや)きました。
          「ワザ。ワザ」
             自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失败したという事を、人もあろうに、竹一に见破られるとは全く思いも挂けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地狱の业火に包まれて燃え上るのを眼前に见るような心地がして、わあっ!   と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
             それからの日々の、自分の不安と恐怖。
          


          IP属地:湖北17楼2010-11-29 16:36
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               表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息(ためいき)が出て、何をしたってすべて竹一に木っ叶みじんに见破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと谁かれとなく、それを言いふらして歩くに违いないのだ、と考えると、额にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく见廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六时中、竹一の傍(そば)から离れず彼が秘密を口走らないように监视していたい気持でした。
            そうして、自分が、彼にまつわりついている间に、自分のお道化は、所谓「ワザ」では无くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と无二の亲友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は无い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を杀そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於(お)いて、人に杀されたいと愿望した事は几度となくありましたが、人を杀したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。
               自分は、彼を手なずけるため、まず、颜に伪クリスチャンのような「优しい」媚笑(びしょう)を湛(たた)え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫抚(ねこな)で声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に游びに来るようしばしば诱いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。
            しかし、自分は、或る日の放课后、たしか初夏の顷の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飞び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを见つけ、行こう、伞を贷してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一绪に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二阶の自分の部屋に诱い込むのに成功しました。
               その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼镜をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒业したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸颜の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら运动用具を少々并べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六栋の长屋の家赁のようでした。
            「耳が痛い」
               竹一は、立ったままでそう言いました。
            「雨に濡れたら、痛くなったよ」
               自分が、见てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。脓(うみ)が、いまにも耳壳の外に流れ出ようとしていました。
            「これは、いけない。痛いだろう」
               と自分は大袈裟(おおげさ)におどろいて见せて、
            「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
               と女の言叶みたいな言叶を遣って「优しく」谢り、それから、下へ行って绵とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝(ひざ)を枕にして寝かせ、念入りに耳の扫除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが伪善の悪计であることには気附かなかったようで、
            「お前は、きっと、女に惚(ほ)れられるよ」
               と自分の膝枕で寝ながら、无智なお世辞を言ったくらいでした。
               しかしこれは、おそらく、あの竹一も意识しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は后年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言叶はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所谓「厳粛」の场であっても、そこへこの言叶が一言でもひょいと颜を出すと、みるみる忧郁の伽蓝(がらん)が崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗语でなく、爱せられる不安、とでもいう文学语を用いると、あながち忧郁の伽蓝をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
            


            IP属地:湖北18楼2010-11-29 16:37
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                 また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に连れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ连れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
                 しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実现では未だ决して无かったのでした。つまり、自分は、日本の东北のハロルド?ロイドに过ぎなかったのです。竹一の无智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った后の事でありました。
                 竹一は、また、自分にもう一つ、重大な赠り物をしていました。
              「お化けの絵だよ」
                 いつか竹一が、自分の二阶へ游びに来た时、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に见せて、そう说明しました。
                 おや?   と思いました。その瞬间、自分の落ち行く道が决定せられたように、后年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に过ぎないのを知っていました。自分たちの少年の顷には、日本ではフランスの所谓印象派の画が大流行していて、洋画鉴赏の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を见て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん见て、タッチの面白さ、色彩の鲜やかさに兴趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が无かったのでした。
              「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」
                 自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤铜のような肌の、れいの裸妇の像を竹一に见せました。
              「すげえなあ」
                 竹一は眼を丸くして感叹しました。
              「地狱の马みたい」
              「やっぱり、お化けかね」
              「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」
                 あまりに人间を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪(ようかい)を确実にこの眼で见たいと愿望するに到る心理、神経质な、ものにおびえ易い人ほど、暴风雨の更に强からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人间という化け物に伤(いた)めつけられ、おびやかされた扬句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を见たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、见えたままの表现に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲间がいる、と自分は、涙が出たほどに兴奋し、
              「仆も画くよ。お化けの絵を画くよ。地狱の马を、画くよ」
                 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
                 自分は、小学校の顷から、絵はかくのも、见るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の缀り方ほどには、周囲の评判が、よくありませんでした。自分は、どだい人间の言叶を一向に信用していませんでしたので、缀り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは别ですけれども)その対象の表现に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鳕目にさまざまの表现法を自分で工夫して试みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一揃(そろ)い持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画风に求めても、自分の画いたものは、まるで千代纸细工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。
                 けれども自分は、竹一の言叶に依って、自分のそれまでの絵画に対する心构えが、まるで间违っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表现しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも无いものを、主観に依って美しく创造し、或いは丑いものに呕吐(おうと)をもよおしながらも、それに対する兴味を隠さず、表现のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。
                 自分でも、ぎょっとしたほど、阴惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては阳気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな阴郁な心を自分は持っているのだ、仕方が无い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに谁にも见せませんでした。自分のお道化の底の阴惨を见破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と见なされ、大笑いの种にせられるかも知れぬという悬念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。
                 また、学校の図画の时间にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。
                 自分は竹一にだけは、前から自分の伤み易い神経を平気で见せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に见せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、
              「お前は、伟い絵画きになる」
                 という予言を得たのでした。
              


              IP属地:湖北20楼2010-11-29 16:42
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                   堀木は、色が浅黒く端正な颜をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広(せびろ)を着て、ネクタイの好みも地味で、そうして头髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。
                   自分は驯れぬ场所でもあり、ただもうおそろしく、腕を组んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯饮んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。
                「仆は、美术学校にはいろうと思っていたんですけど、……」
                「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教师は、自然の中にあり!   自然に対するパアトス!」
                   しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。马鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、游ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその时、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を见たのでした。それは、自分と形は违っていても、やはり、この世の人间の営みから完全に游离してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同类なのでした。そうして、彼はそのお道化を意识せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本质的に异色のところでした。
                   ただ游ぶだけだ、游びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑(けいべつ)し、时には彼との交友を耻ずかしくさえ思いながら、彼と连れ立って歩いているうちに、结局、自分は、この男にさえ打ち破られました。
                   しかし、はじめは、この男を好人物、まれに见る好人物とばかり思い込み、さすが人间恐怖の自分も全く油断をして、东京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、电车に乗ると车掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の绯(ひ)の绒缎(じゅうたん)が敷かれてある阶段の両侧に并んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背后にひっそり立って、皿のあくのを待っている给仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う时、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は买い物をしてお金を手渡す时には、吝啬(りんしょく)ゆえでなく、あまりの紧张、あまりの耻ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お钓を受け取るのを忘れるばかりでなく、买った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで东京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。
                


                IP属地:湖北22楼2010-11-29 16:45
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                     好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って结ばれた亲爱感では无かったのです。
                     非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず强いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の无い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飞び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
                     日荫者(ひかげもの)、という言叶があります。人间の世に於いて、みじめな、败者、悪徳者を指差していう言叶のようですが、自分は、自分を生れた时からの日荫者のような気がしていて、世间から、あれは日荫者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、优しい心になるのです。そうして、その自分の「优しい心」は、自身でうっとりするくらい优しい心でした。
                     また、犯人意识、という言叶もあります。自分は、この人间の世の中に於いて、一生その意识に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠(そうこう)の妻の如き好伴侣(はんりょ)で、そいつと二人きりで侘(わ)びしく游びたわむれているというのも、自分の生きている姿势の一つだったかも知れないし、また、俗に、胫(すね)に伤持つ身、という言叶もあるようですが、その伤は、自分の赤ん坊の时から、自然に片方の胫にあらわれて、长ずるに及んで治愈するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで达し、夜々の痛苦は千変万化の地狱とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その伤は、次第に自分の血肉よりも亲しくなり、その伤の痛みは、すなわち伤の生きている感情、または爱情の嗫(ささや)きのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下运动のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その运动の本来の目的よりも、その运动の肌が、自分に合った感じなのでした。堀木の场合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を绍介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生产面の研究と同时に、消费面の视察も必要だなどと下手な洒落(しゃれ)を言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消费面の视察のほうにばかり诱いたがるのでした。
                  思えば、当时は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真の信奉者に见破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の绅士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所谓「健康」に振舞う事が出来ましたので、见込みのある「同志」として、喷き出したくなるほど过度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。
                  また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは无く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれ不审讯问(じんもん)などを受けてしくじるような事も无かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その运动の连中は、一大事の如く紧张し、探侦小说の下手な真似みたいな事までして、极度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の称する仕事を、とにかく正确にやってのけていました。
                  


                  IP属地:湖北25楼2010-11-29 16:52
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                    中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行动队々长というものに、自分はなっていたのでした。武装蜂起(ほうき)、と闻き、小さいナイフを买い(いま思えば、それは铅笔をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飞び廻って、所谓(いわゆる)「联络(れんらく)」をつけるのでした。お酒を饮んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。しかも、P(党の事を、そういう隠语で呼んでいたと记忆していますが、或いは、违っているかも知れません)のほうからは、次々と息をつくひまも无いくらい、用事の依頼がまいります。
                    自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも无くなりました。もともと、非合法の兴味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗谈から驹が出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはお门(かど)ちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。
                       その顷、自分に特别の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙游馆の娘でした。この娘は、自分がれいの运动の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず用笺(ようせん)と万年笔を持って自分の部屋にやって来て、
                    「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手纸も书けないのです」
                       と言って、何やら自分の机に向って一时间以上も书いているのです。
                       自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発挥して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて腹这(はらば)いになり、烟草を吸い、
                    「女から来たラヴ?レターで、风吕をわかしてはいった男があるそうですよ」
                    「あら、いやだ。あなたでしょう?」
                    「ミルクをわかして饮んだ事はあるんです」
                    「光栄だわ、饮んでよ」
                       早くこのひと、帰らねえかなあ、手纸だなんて、见えすいているのに。へへののもへじでも书いているのに违いないんです。
                    「见せてよ」
                       と死んでも见たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、兴が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。
                    「すまないけどね、电车通りの薬屋に行って、カルモチンを买って来てくれない?   あんまり疲れすぎて、颜がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」
                    「いいわよ、お金なんか」
                       よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、决して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。
                       もうひとりは、女子高等师范の文科生の所谓「同志」でした。このひととは、れいの运动の用事で、いやでも毎日、颜を合せなければならなかったのです。打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを买ってくれるのでした。
                    「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
                       そのキザに身震いしながら、自分は、
                    「そのつもりでいるんです」
                       と、愁(うれ)えを含んだ微笑の表情を作って答えます。とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよその丑い、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを买ってもらっては、(その买い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋の亲爷(おやじ)などにやってしまいました)うれしそうな颜をして、冗谈を言っては笑わせ、或る夏の夜、どうしても离れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く兴奋し、自动车を呼んで、そのひとたちの运动のために秘密に借りてあるらしいビルの事务所みたいな狭い洋室に连れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。
                    


                    IP属地:湖北27楼2010-11-29 16:52
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                         下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、颜を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のご机嫌をただ悬命に取り结び、もはや自分は、金缚り同様の形になっていました。
                         同じ顷また自分は、银座の或る大カフエの女给から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身动き出来ないほどの、心配やら、空(そら)おそろしさを感じていたのでした。その顷になると、自分も、敢えて堀木の案内に頼らずとも、ひとりで电车にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、絣(かすり)の着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、多少の図々しさを装えるようになっていたのです。心では、相変らず、人间の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真颜の挨拶、いや、ちがう、自分はやはり败北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、无我梦中のへどもどの挨拶でも、どうやら出来るくらいの「伎俩(ぎりょう)」を、れいの运动で走り廻ったおかげ?
                         または、女の?
                         または、酒?
                         けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女给、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出来たら、自分のこの绝えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、银座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女给に、
                      「十円しか无いんだからね、そのつもりで」
                         と言いました。
                      「心配要りません」
                         どこかに関西の讹(なま)りがありました。そうして、その一言が、奇妙に自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。
                         自分は、お酒を饮みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の地金(じがね)の无口で阴惨なところを隠さず见せて、黙ってお酒を饮みました。
                      「こんなの、おすきか?」
                         女は、さまざまの料理を自分の前に并べました。自分は首を振りました。
                      「お酒だけか?   うちも饮もう」
                         秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、记忆が薄れ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、银座裏の、或る屋台のお鮨(すし)やで、少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、その时の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり记忆に残っています。そうして、青大将の颜に似た颜つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に见るように鲜明に思い出され、后年、电车などで、はて见た颜だ、といろいろ考え、なんだ、あの时の鮨やの亲爷に似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あったほどでした。
                      あのひとの名前も、また、颜かたちさえ记忆から远ざかっている现在なお、あの鮨やの亲爷の颜だけは絵にかけるほど正确に覚えているとは、よっぽどあの时の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに连れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。大き过ぎるのです。亲指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)そのひとを、待っていました。
                      


                      IP属地:湖北28楼2010-11-29 16:57
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                           本所の大工さんの二阶を、そのひとが借りていました。自分は、その二阶で、日顷の自分の阴郁な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に袭われてでもいるように、片手で頬をおさえながら、お茶を饮みました。そうして、自分のそんな姿态が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、落叶だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの女でした。
                           一绪にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広岛、あたしには主人があるのよ、広岛で床屋さんをしていたの、昨年の春、一绪に东京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、东京で、まともな仕事をせずそのうちに诈欺罪に问われ、刑务所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑务所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物语るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上噺(ばなし)というものには、少しも兴味を持てないたちで、それは女の语り方の下手なせいか、つまり、话の重点の置き方を间违っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、马耳东风なのでありました。
                           侘びしい。
                           自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟(つぶや)きのほうに、共感をそそられるに违いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言叶を闻いた事がないのを、奇怪とも不思议とも感じております。けれども、そのひとは、言叶で「侘びしい」とは言いませんでしたが、无言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした阴郁の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯叶」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、离れる事が出来るのでした。
                           あの白痴の淫売妇たちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く异って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、阳気でした)その诈欺罪の犯人の妻と过した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言叶を、なんの踌躇(ちゅうちょ)も无く、肯定して使用する事は、自分のこの全手记に於いて、再び无いつもりです)解放せられた夜でした。
                           しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。绵で怪我をするんです。幸福に伤つけられる事もあるんです。伤つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の烟幕を张りめぐらすのでした。
                        「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が无くなると女にふられるって意味、じゃあ无いんだ。男に金が无くなると、男は、ただおのずから意気销沈(しょうちん)して、ダメになり、笑う声にも力が无く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。仆にも、その気持わかるがね」
                           たしか、そんなふうの马鹿げた事を言って、ツネ子を喷き出させたような记忆があります。长居は无用、おそれありと、颜も洗わずに素早く引上げたのですが、その时の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」という出鳕目(でたらめ)の放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。
                           それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。别れて、日が経つにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分胜手にひどい束缚を感じて来て、あのカフエのお勘定を、あの时、全部ツネ子の负担にさせてしまったという俗事さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、あの女子高等师范と同じく、自分を胁迫するだけの女のように思われ、远く离れていながらも、绝えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一绪に休んだ事のある女に、また逢うと、その时にいきなり何か烈火の如く怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに颇(すこぶ)るおっくうがる性质でしたので、いよいよ、银座は敬远の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性质は、决して自分の狡猾(こうかつ)さではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との间に、一つの、尘(ちり)ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、见事に二つの世界を切断させて生きているという不思议な现象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。
                        


                        IP属地:湖北29楼2010-11-29 16:57
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                             十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を饮み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで饮もうと主张し、もう自分たちにはお金が无いのに、それでも、饮もう、饮もうよ、とねばるのです。その时、自分は、酔って大胆になっているからでもありましたが、
                          「よし、そんなら、梦の国に连れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」
                          「カフエか?」
                          「そう」
                          「行こう!」
                             というような事になって二人、市电に乗り、堀木は、はしゃいで、
                          「おれは、今夜は、女に饥え渇いているんだ。女给にキスしてもいいか」
                             自分は、堀木がそんな酔态を演じる事を、あまり好んでいないのでした。堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。
                          「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女给に、きっとキスして见せる。いいか」
                          「かまわんだろう」
                          「ありがたい!   おれは女に饥え渇いているんだ」
                             银座四丁目で降りて、その所谓酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみの纲としてほとんど无一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女给が走り寄って来て、そのもう一人の女给が自分の傍に、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。ツネ子は、いまにキスされる。
                             惜しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有欲というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主张し、人と争うほどの気力が无いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って见ていた事さえあったほどなのです。
                             自分は、人间のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その涡に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけの间柄です。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思い上った欲は、自分に持てる筈はありません。けれども、自分は、ハッとしました。
                             自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな热は无い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の颜を见较べ、にやにやと笑いました。
                             しかし、事态は、実に思いがけなく、もっと悪く展开せられました。
                          「やめた!」
                             と堀木は、口をゆがめて言い、
                          「さすがのおれも、こんな贫乏くさい女には、……」
                             闭口し切ったように、腕组みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。
                          「お酒を。お金は无い」
                             自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、浴びるほど饮んでみたい気持でした。所谓俗物の眼から见ると、ツネ子は酔汉のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、贫乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分には霹雳(へきれき)に撃ちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の无かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を饮み、ぐらぐら酔って、ツネ子と颜を见合せ、哀(かな)しく微笑(ほほえ)み合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて贫乏くさいだけの女だな、と思うと同时に、金の无い者どうしの亲和(贫富の不和は、陈腐のようでも、やはりドラマの永远のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その亲和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの时はじめて、われから积极的に、微弱ながら恋の心の动くのを自覚しました。吐きました。前后不覚になりました。お酒を饮んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その时がはじめてでした。
                          


                          IP属地:湖北30楼2010-11-29 17:04
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                               眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。本所の大工さんの二阶の部屋に寝ていたのでした。
                            「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、冗谈かと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか」
                            「だめ」
                               それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言叶がはじめて出て、女も人间としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの运动、女、学业、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。
                               けれども、その时にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。どこかに「游び」がひそんでいました。
                               その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。吃茶店にはいり、牛乳を饮みました。
                            「あなた、払うて置いて」
                               自分は立って、袂(たもと)からがま口を出し、ひらくと、铜銭が三枚、羞耻(しゅうち)よりも凄惨(せいさん)の思いに袭われ、たちまち脳里(のうり)に浮ぶものは、仙游馆の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、质草になりそうなものの一つも无い荒凉たる部屋、他には自分のいま着て歩いている絣の着物と、マント、これが自分の现実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。
                               自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、
                            「あら、たったそれだけ?」
                               无心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、铜銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未(いま)だかつて味わった事の无い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。所诠(しょせん)その顷の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという种属から脱し切っていなかったのでしょう。その时、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として决意したのです。
                               その夜、自分たちは、镰仓の海に飞び込みました。女は、この帯はお店のお友达から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、一绪に入水(じゅすい)しました。
                               女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。
                               自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所谓ニュウス?ヴァリュがあったのか、新闻にもかなり大きな问题として取り上げられたようでした。
                               自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から亲戚(しんせき)の者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、これっきり生家とは义绝になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。本当に、いままでのひとの中で、あの贫乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。
                               下宿の娘から、短歌を五十も书きつらねた长い手纸が来ました。「生きくれよ」というへんな言叶ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看护妇たちが阳気に笑いながら游びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看护妇もいました。
                               自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発见せられ、これがたいへん自分に好都合な事になり、やがて自分が自杀幇助(ほうじょ)罪という罪名で病院から**に连れて行かれましたが、**では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保护室に収容しました。
                            


                            IP属地:湖北31楼2010-11-29 17:04
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                                 しかし、その时期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の简単な取调べを受けました。検事は四十歳前后の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは谓(い)わば邪淫の美貌だったに违いありませんが、その検事の颜は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静谧(せいひつ)の気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陈述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を见て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの赝(にせ)の咳を大袈裟(おおげさ)に附け加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の颜をちらと见た、间一髪、
                              「ほんとうかい?」
                                 ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中学时代に、あの马鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて脊中(せなか)を突かれ、地狱に蹴落(けおと)された、その时の思い以上と言っても、决して过言では无い気持です。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失败の记录です。検事のあんな物静かな侮蔑(ぶべつ)に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、时たまある程なのです。
                                 自分は起诉犹予になりました。けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局の控室のベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが来るのを待っていました。
                                 背后の高い窓から夕焼けの空が见え、鴎(かもめ)が、「女」という字みたいな形で飞んでいました。
                              〔#改页〕
                              


                              IP属地:湖北33楼2010-11-29 18:01
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