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【武人八幡】本庄繁长公日文维基资料

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一楼祭宪德院殿杰伝长胜大居士


IP属地:美国1楼2013-03-05 07:45回复
    本庄 繁长(ほんじょう しげなが)は、戦国时代から江戸时代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。繁长が生まれる直前、繁长の父・房长は同族の色部氏と共に、越后守护・上杉定実が伊达稙宗の子・时宗丸を养子に迎えることに异を唱え、入嗣推进派の中条藤资らと対立した。伊达の支援を受けた中条军に攻められた房长は、弟・小川长资と同族・鮎川清长の勧めにより、本庄氏と盟友関系にある出羽庄内地方の武藤氏のもとに逃れた。しかしこれは长资の罠であり、その隙に长资によって居城を夺われてしまう。弟の谋反に冲撃を受けた房长は病に倒れそのまま没した。房长を失った本庄氏の家臣団は遗児・千代猪丸を当主に立てたものの、长资をその后见人として认めざるを得ず、本庄氏の実権は长资の手に落ちた。しかし「幼少より気性刚强で勇猛」と评される成长ぶりを见せていた千代猪丸は、天文20年(1551年)に父の13回忌の会场で后见人として参加した长资を捕えて自害に追い込み、本庄氏の実権を取り戻した。
    当初は长资を支援していた长尾景虎(上杉谦信)と対立していたが、永禄元年(1558年)からは谦信の家臣となり、川中岛の戦いや関东攻めなど、谦信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。しかし、本庄氏ら越后北部の国人领主らは扬北众と呼ばれ、守护や守护代としばしば対立し、自立の倾向が强かった。繁长は永禄11年(1568年)に甲斐国の武田信玄[2]の要请に応じて上杉氏からの独立を目论み、尾浦城主で大宝寺氏(武藤氏)の当主・大宝寺义増と结んで挙兵した。繁长の勇猛さにさすがの谦信も镇圧に手间取ったが、谦信は先に庄内へと兵を进めて义増を降伏させ、孤立した繁长に猛攻を加えた。翌年、繁长は芦名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(后の顕长)を人质として差し出すことで帰参を许された。
    天正6年(1578年)、谦信の死により発生した御馆の乱では、自身は上杉景胜方に付いて上杉景虎方の鮎川氏と戦ったが、一方で嫡男・顕长を大宝寺义氏(义増の子)と共に景虎方に付け、乱が景胜方の胜利に终わると顕长を廃嫡した。その后は新発田重家讨伐など上杉家臣として数々の军功を挙げる。
    天正11年(1583年)、庄内进出を目指す山形城主最上义光に义氏が谋杀されると、繁长は义光の庄内侵攻を阻止すべく大宝寺氏を支援し続けた。义氏の弟・义兴は繁长との连携をより强固にするため、繁长の次男・千胜丸を养子として迎える(大宝寺义胜。武藤义胜とも呼ばれる场合がある。)。しかしこれが亲最上派の国人达の激しい反発を买い、繁长が新発田攻めで动けないことから庄内各地で反乱が起き、それに乗じて义光が庄内に军を进めた。天正15年(1587年)11月、尾浦城が陥落し义兴は自害。义胜は実父を頼って落ち延びた。翌天正16年(1588年)8月、义光が伊达政宗との合戦で动けない隙に乗じて繁长・义胜父子は庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで反武藤派国人连合からなる最上军に胜利を収めた。繁长は最上势を追撃して东根まで军を进めたが、最上势の奇袭に遭い撤退した。庄内地方に复帰した义胜は、天正17年(1589年)5月、豊臣秀吉に谒见し、大宝寺氏は上杉景胜の与力大名として公认された。
    天正18年(1590年)、秀吉の命により上杉景胜が由利郡・仙北郡の検地を行ったとき、繁长は同僚の色部长真と诤いを起す。その直后、奥羽で反豊臣の一揆が発生する。一揆は镇圧されるが、繁长・义胜父子は庄内の藤岛一揆を扇动したとの嫌疑を受けて改易され、大和国に配流された。その后、文禄の役に参阵して赦免され、1万石を与えられて上杉家に帰参した。庆长3年(1598年)、景胜が会津に転封されると、田村郡守山城代に任じられた。
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    IP属地:美国2楼2013-03-05 07:46
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      関ヶ原の戦いが迫った庆长5年(1600年)8月下旬、景胜の命により信夫郡福岛城に移り、梁川城の须田长义と共に伊达军の侵攻に备えた。関ヶ原の戦いが东军の胜利に终わり、また最上义光を攻めていた直江兼続が败退すると、10月6日、片仓景纲・茂庭纲元・屋代景頼ら率いる伊达军が福岛城へと攻め込んできた。繁长はまず义胜に迎撃させたが、宫代・瀬上间の野戦で败れ、义胜は撤収して繁长と共に福岛城に笼城した。伊达军は孤立した福岛城を包囲し城下まで攻め入り、砂金実常の部队が城门まで突出して攻撃を加えたが、宫代から出撃した岩井信能や须田の袭撃の报告を手にした繁长が城外に打って出た为、伊达军は挟撃され、手负いも多く出たため(片仓景纲の家臣の国分外记と须田弥平左卫门らが讨死)、政宗はいったん攻撃を中止し、福岛城へ向けて钓瓶打ちに铳撃を加えた后、国见山に阵を返した。この时、梁川城の须田长义が信夫山の后背に展开していた伊达军を追撃して小荷駄队を袭い、「竹に雀」の阵幕を夺う働きを见せた。伊达侧の记录によれば、国见山に帰阵した伊达军は、梁川城での调略工作が、横田大学の伊达方への内通が発覚したことにより失败に终わったため、福岛城への二度目の攻撃を中止して、翌7日即座に北目城へ撤退した[3][4]。又、摺上川を上り茂庭から稲子峠を経て北目城へ撤退したとする说がある[5][6][7]。いずれにしても、繁长は伊达军から福岛城を死守したのは事実である。
      10月20日に徳川家康に対して抗戦を継続すべきか講和すべきか軍議が行われ、この席で兼続は抗戦継続を唱え、繁長は講和を勧めた。景勝は繁長の意見を容れて終戦工作を開始し、11月3日には繁長に上洛して折衝にあたるよう命じ、上洛した繁長は伏見留守居役・千坂景親と協力して終戦工作に奔走した。その結果、繁長らの努力が実って上杉家は存続を許されたものの、会津120万石から米沢30万石へと減封された。これに伴い繁長も3300石に減俸されたが、引き続き福島城代を務め、重臣として家中の再建にあたった。
      慶長18年(西暦では翌1614年)12月20日没。享年74。上杉景勝は繁長の武勇を称え、故人に「武人八幡」の称号を与えた。法名は憲徳院殿傑伝長勝大居士。墓所は福島県福島市の長楽寺。長楽寺には繁長の木像が安置されており、毎年9月に行われる供養祭には一般公開されている。家督は先に大宝寺氏に養子に入っていた次男の大宝寺義勝が本庄氏に復帰し、本庄充長と改名することで相続した。[8]


      IP属地:美国3楼2013-03-05 07:46
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        要翻译啊要翻译!


        4楼2013-03-05 08:14
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          本庄 繁长(ほんじょう しげなが),战国时代至江户时代初期的武将。上杉氏的重臣。繁长出生之前,其父房长与同族色部氏共同侍奉越后守护上杉定实,后伊达植宗想让养子时宗丸作为养子入继上杉家,为此国人众内部出现了分歧,(房长)与入嗣推进派的中条藤资对立。在伊达军的支援下,中条军对房长方发动了进攻,在(房长)的弟弟小川长资和鲇川清长的“劝告”下,房长放弃了居城并逃跑到了与本庄氏有着同盟关系的出羽国庄内武藤氏之地,结果长资在这个时候趁机夺去了房长的居城。亲弟弟的谋反给予了房长巨大的心理打击并且让房长病倒,不久后不治身亡。房长死后,本庄氏的家臣团拥立房长的遗子千代猪丸为当主,长资则以同族的身份出任千代猪丸的后见役,至此本庄氏的实权全部落入了长资的手中。周边的人这样评价还在成长中的千代猪丸:“虽然相当年幼,但是气质刚强,且十分勇猛。”天文20年(1551年),长资作为千代猪丸的后见役参加了房长的第13次忌日祭,在会场中被(千代猪丸的)人抓住,被迫自杀。至此,(千代猪丸)取回了本庄氏的实权


          IP属地:美国5楼2013-03-18 03:54
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            当初长资支持长尾景虎(上杉谦信),因此家中出现了对立。永禄元年(1558年),(繁长)加入上杉家并成为家臣,参加了川中岛之战和关东攻略,随从谦信转战各地,立有不少的功劳。但是,本庄氏作为越后北部的国人领主组织“扬北众”的成员,长期与守护·守护代对立,有很强的自立倾向。繁长在永禄11年(1568年)应甲斐国领主武田信玄的要求从上杉家中独立,并与尾浦城主大宝寺氏(武藤氏)的当主大宝寺义增联合举兵。勇猛的的繁长令上杉氏花费了大量的时间,后谦信先进攻庄内并使大宝寺义增降服,然后再集中主力进攻被孤立的繁长。次年,繁长在芦名盛氏的中介下降服于谦信,但却需要送出嫡子千代丸(后来的显长)作为人质。天正6年(1578年),谦信死后发生了御馆之乱,繁长自身作为上杉景胜方的将领参与了对景虎方的鲶川氏的讨伐,但另一方面嫡子显长却加入了景虎方。御馆之乱最终以上杉景胜的胜利告终,繁长也不得不废除了显长的继承人身份。之后繁长作为上杉方的家臣参加了新发田之乱,在讨伐新发田的战争中立功。


            IP属地:美国6楼2013-03-19 08:41
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              天正11年(1583年),以庄内进出为目标的山形城主最上义光谋杀了(大宝寺)义氏,为了阻止最上氏的庄内侵略,繁长决定继续支援大宝寺氏。义氏的弟弟大宝寺义兴与繁长结盟以强化庄内的防御,同时还迎入了繁长的次子千胜丸(即后来的大宝寺义胜,或称之为武藤义胜)作为大宝寺义兴的养子。但亲最上派的国人在受到义光的收买后决定反叛大宝寺氏,此时繁长正忙于对新发田的讨伐而无暇顾及庄内,因此一时之间庄内地区变得十分动荡,叛乱四起,趁此机会,义光决定对庄内出兵。天正15年(1587年)11月,尾浦城陷落,义兴自尽,义胜不得不依赖实父繁长。次年亦即天正16年(1588年)8月,趁着义光对伊达政宗发动战争的时机,繁长联合义胜发动了收复庄内的战争,在十五里原之战中击败了最上·反武藤派联军,一路追击并奇袭最上军,使最上军撤退。庄内地方复归义胜。天正17年(1589年)5月,繁长觐见丰臣秀吉,大宝寺氏作为上杉景胜的与力大名而得到了承认。


              IP属地:美国7楼2013-03-19 09:06
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                天正18年(1590年),秀吉命令上杉景胜对仙北郡,由利郡实施检地,繁长与同僚色部长真之间起了争执。后奥羽发生了反丰臣的一揆,一揆被镇压后,繁长·义胜父子因为有挑起庄内藤岛一揆的嫌疑而被流放至大和国。以后因为繁长参加了文禄之役而被赦免,受封1万石并回归上杉家。庆长3年(1598年),景胜被转封至会津,繁长就任田村郡守山城代。


                IP属地:美国8楼2013-03-19 09:13
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                  懒得翻译……后一段好长


                  IP属地:美国9楼2013-03-27 08:19
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                    日本人的历史素养怎么样啊?貌似不怎么高。


                    IP属地:陕西10楼2013-04-06 13:16
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