
本庄 繁长(ほんじょう しげなが)は、戦国时代から江戸时代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。繁长が生まれる直前、繁长の父・房长は同族の色部氏と共に、越后守护・上杉定実が伊达稙宗の子・时宗丸を养子に迎えることに异を唱え、入嗣推进派の中条藤资らと対立した。伊达の支援を受けた中条军に攻められた房长は、弟・小川长资と同族・鮎川清长の勧めにより、本庄氏と盟友関系にある出羽庄内地方の武藤氏のもとに逃れた。しかしこれは长资の罠であり、その隙に长资によって居城を夺われてしまう。弟の谋反に冲撃を受けた房长は病に倒れそのまま没した。房长を失った本庄氏の家臣団は遗児・千代猪丸を当主に立てたものの、长资をその后见人として认めざるを得ず、本庄氏の実権は长资の手に落ちた。しかし「幼少より気性刚强で勇猛」と评される成长ぶりを见せていた千代猪丸は、天文20年(1551年)に父の13回忌の会场で后见人として参加した长资を捕えて自害に追い込み、本庄氏の実権を取り戻した。
当初は长资を支援していた长尾景虎(上杉谦信)と対立していたが、永禄元年(1558年)からは谦信の家臣となり、川中岛の戦いや関东攻めなど、谦信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。しかし、本庄氏ら越后北部の国人领主らは扬北众と呼ばれ、守护や守护代としばしば対立し、自立の倾向が强かった。繁长は永禄11年(1568年)に甲斐国の武田信玄[2]の要请に応じて上杉氏からの独立を目论み、尾浦城主で大宝寺氏(武藤氏)の当主・大宝寺义増と结んで挙兵した。繁长の勇猛さにさすがの谦信も镇圧に手间取ったが、谦信は先に庄内へと兵を进めて义増を降伏させ、孤立した繁长に猛攻を加えた。翌年、繁长は芦名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(后の顕长)を人质として差し出すことで帰参を许された。
天正6年(1578年)、谦信の死により発生した御馆の乱では、自身は上杉景胜方に付いて上杉景虎方の鮎川氏と戦ったが、一方で嫡男・顕长を大宝寺义氏(义増の子)と共に景虎方に付け、乱が景胜方の胜利に终わると顕长を廃嫡した。その后は新発田重家讨伐など上杉家臣として数々の军功を挙げる。
天正11年(1583年)、庄内进出を目指す山形城主最上义光に义氏が谋杀されると、繁长は义光の庄内侵攻を阻止すべく大宝寺氏を支援し続けた。义氏の弟・义兴は繁长との连携をより强固にするため、繁长の次男・千胜丸を养子として迎える(大宝寺义胜。武藤义胜とも呼ばれる场合がある。)。しかしこれが亲最上派の国人达の激しい反発を买い、繁长が新発田攻めで动けないことから庄内各地で反乱が起き、それに乗じて义光が庄内に军を进めた。天正15年(1587年)11月、尾浦城が陥落し义兴は自害。义胜は実父を頼って落ち延びた。翌天正16年(1588年)8月、义光が伊达政宗との合戦で动けない隙に乗じて繁长・义胜父子は庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで反武藤派国人连合からなる最上军に胜利を収めた。繁长は最上势を追撃して东根まで军を进めたが、最上势の奇袭に遭い撤退した。庄内地方に复帰した义胜は、天正17年(1589年)5月、豊臣秀吉に谒见し、大宝寺氏は上杉景胜の与力大名として公认された。
天正18年(1590年)、秀吉の命により上杉景胜が由利郡・仙北郡の検地を行ったとき、繁长は同僚の色部长真と诤いを起す。その直后、奥羽で反豊臣の一揆が発生する。一揆は镇圧されるが、繁长・义胜父子は庄内の藤岛一揆を扇动したとの嫌疑を受けて改易され、大和国に配流された。その后、文禄の役に参阵して赦免され、1万石を与えられて上杉家に帰参した。庆长3年(1598年)、景胜が会津に転封されると、田村郡守山城代に任じられた。
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当初は长资を支援していた长尾景虎(上杉谦信)と対立していたが、永禄元年(1558年)からは谦信の家臣となり、川中岛の戦いや関东攻めなど、谦信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。しかし、本庄氏ら越后北部の国人领主らは扬北众と呼ばれ、守护や守护代としばしば対立し、自立の倾向が强かった。繁长は永禄11年(1568年)に甲斐国の武田信玄[2]の要请に応じて上杉氏からの独立を目论み、尾浦城主で大宝寺氏(武藤氏)の当主・大宝寺义増と结んで挙兵した。繁长の勇猛さにさすがの谦信も镇圧に手间取ったが、谦信は先に庄内へと兵を进めて义増を降伏させ、孤立した繁长に猛攻を加えた。翌年、繁长は芦名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(后の顕长)を人质として差し出すことで帰参を许された。
天正6年(1578年)、谦信の死により発生した御馆の乱では、自身は上杉景胜方に付いて上杉景虎方の鮎川氏と戦ったが、一方で嫡男・顕长を大宝寺义氏(义増の子)と共に景虎方に付け、乱が景胜方の胜利に终わると顕长を廃嫡した。その后は新発田重家讨伐など上杉家臣として数々の军功を挙げる。
天正11年(1583年)、庄内进出を目指す山形城主最上义光に义氏が谋杀されると、繁长は义光の庄内侵攻を阻止すべく大宝寺氏を支援し続けた。义氏の弟・义兴は繁长との连携をより强固にするため、繁长の次男・千胜丸を养子として迎える(大宝寺义胜。武藤义胜とも呼ばれる场合がある。)。しかしこれが亲最上派の国人达の激しい反発を买い、繁长が新発田攻めで动けないことから庄内各地で反乱が起き、それに乗じて义光が庄内に军を进めた。天正15年(1587年)11月、尾浦城が陥落し义兴は自害。义胜は実父を頼って落ち延びた。翌天正16年(1588年)8月、义光が伊达政宗との合戦で动けない隙に乗じて繁长・义胜父子は庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで反武藤派国人连合からなる最上军に胜利を収めた。繁长は最上势を追撃して东根まで军を进めたが、最上势の奇袭に遭い撤退した。庄内地方に复帰した义胜は、天正17年(1589年)5月、豊臣秀吉に谒见し、大宝寺氏は上杉景胜の与力大名として公认された。
天正18年(1590年)、秀吉の命により上杉景胜が由利郡・仙北郡の検地を行ったとき、繁长は同僚の色部长真と诤いを起す。その直后、奥羽で反豊臣の一揆が発生する。一揆は镇圧されるが、繁长・义胜父子は庄内の藤岛一揆を扇动したとの嫌疑を受けて改易され、大和国に配流された。その后、文禄の役に参阵して赦免され、1万石を与えられて上杉家に帰参した。庆长3年(1598年)、景胜が会津に転封されると、田村郡守山城代に任じられた。
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