小田原城夺取など、早云の一连の行动は、茶々丸讨伐という目的だけでなく、自らの势力范囲を拡大しようとする意図もあったと见られていた。だが近年の研究では义澄-细川政元-今川氏亲-早云のラインと、足利义稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信虎のライン、即ち明応の政変による対立构図の中での军事行动であることが明らかになってきている。
小田原城夺取も、藤頼が义稙ラインの山内上杉氏に寝返った为のものと考えられている。最终的に、明応8年(1498年)、早云は甲斐国で茶々丸を捕捉し、杀害することに成功した。讨った场所については、伊豆国の深根城とする说も有力である。
今川氏の武将としての活动も続き、文亀年间(1501年-1504年)には三河国にまで进んでいる。『柳営秘鉴』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平长亲(徳川家康の先祖)と戦って败北し、三河侵攻は失败に终わっている。松平方の先阵の酒井、本多、大久保の働きがあったという。ただし、徳川実纪では、永正3年(1506年)8月20日のこととされている。
相模平定 [编集]
その后、早云は相模方面へ本格的に転进し、関东南部の制圧に乗り出したが、茶々丸讨伐の名目を失ったため、この后の军事行动には多大な困难が伴った。更に、伊豆・西相模を失った山内上杉顕定による离间策により氏亲・早云は义澄・政元と断绝されてしまう。この事によって政治的な立场が弱くなった。
北条早云関系図拡大それでも早云は今川氏の援助を受けながら、今度は义稙-大内ラインに与し、徐々に相模に势力を拡大していった。こうした関东进出の大きな画期となったのは、永正元(1504年)8月の武蔵国立河原の戦いであり、扇谷上杉朝良に味方した早云は、今川氏亲とともに出阵して山内上杉顕定に胜利した。
この败戦后に山内上杉顕定は越后上杉氏の来援を得て反撃に出る。相模国へ乱入して、扇谷上杉氏の诸城を攻略。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた扇谷上杉朝良は降伏した。これにより、早云は山内上杉氏、扇谷上杉氏の両上杉と敌対することになる。
永正6年(1509年)以降は早云の今川氏の武将としての活动はほとんど见られなくなり、早云は相模进出に集中する。永正3年(1506年)に相模国で検地を初めて実施して支配の强化を図っている。
永正4年(1507年)、管领细川政元が暗杀される。同年、顕定の弟で越后守护房能が守护代の长尾为景(上杉谦信の父)に杀される事件が起きた。早云は为景と结んで顕定を牵制した。
永正6年(1509年)7月、顕定は大军を率いて越后国へ出阵。同年8月、この隙を突いて早云は扇谷上杉朝良の本拠江戸城に迫った。上野国に出阵していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早云と武蔵国、相模国で戦った。
早云は権现山城(横浜市)の上田政盛を扇谷上杉氏から离反させ攻势に出るが、同年7月になって山内上杉氏と扇谷上杉氏が反撃に出て、権现山城は落城。三浦义同(道寸)が早云方の住吉要害(平冢市)を攻略して小田原城まで迫る。早云は手痛い败北を吃し、扇谷上杉氏との和睦をして切り抜けた。一方、同年6月には越后国に出阵していた顕定は长尾为景の逆袭を受けて败死してしまっている。
三浦氏は相模国の名族で源頼朝の挙兵に参じ、镰仓幕府创立の功臣として大きな势力を有していたが、嫡流は执権の北条氏に宝治合戦で灭ぼされている。しかし、傍流は相模国の豪族として続き、相模国で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。
この顷の三浦氏は扇谷上杉氏に属し、同氏の出身で当主の三浦义同(道寸)が相模中央部の冈崎城(现伊势原市)を本拠とし、三浦半岛の三崎城(现三浦市(军记物などには新井城とある)を子の义意が守っていた。早云の相模平定のためには、どうしても三浦氏を灭ぼさねばならなかった。