【原出处:宫本武蔵「五轮书」の技を解说する(书)】
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宫本武蔵「五轮书」の技を解说する
泊瀬光延
タテ书き小说ネット Byヒナプロジェクト..
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注意事项
テ书き小说ネット」のシステムが自动的にPDF化させたものです。
この小说の著作権は小说の作者にあります。そのため、作者また
は「小说家になろう」および「タテ书き小说ネット」を运営するヒ
ナプロジェクトに无断でこのPDFファイル及び小说を、引用の范
囲を超える形で転载、改変、再配布、贩売することを一切禁止致し
ます。小说の绍介や个人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
【小说タイトル】
宫本武蔵「五轮书」の技を解说する
【Nコード】
N6168H
【作者名】
泊瀬光延
【あらすじ】
宫本武蔵の兵法の集大成である五轮书も、ビジネス戦略や精神修
养の意味では読まれていますが、真の古武道の书としては现在、理
解出来る人は少ないと思われます。その理由は、ここに书かれてい
る身体の使い方が、西洋式の体操に惯れた现代人には分からなくな
っているからです。著者は、书に书かれている技を分かりやすく解
说しようと试みます。武蔵の简単に书かれた文章からその身体法、
敌への対処法を再构成するために、ヒントとなったのが、现在に多
くの古い技を残している尾张柳生新阴流の研究でした。と言っても
このPDFファイルは「小说家になろう」で掲载中の小说を「タ
1
日本人はまだ古い记忆を持っています。お盆で踊る踊りにも、古武
道の基本である「ナンバ」の身体法が残っているのです。
水之巻 序.第一节 兵法心持の事
.主に身体のありかた、使い方、技などについて
はじめに
今までの一般的な訳から脱却して、古武道としての教え、考え方
を武蔵に倾倒することなく、客観的に解说していきたいと考えてい
ます。
また、身体势法として多くの技を现在に残している、尾张柳生新
阴流と対比させながら、分析も行います。二天一流と新阴流の剣理
は、双子の様に似ている事が分かります。これは元々古武道という
ものが底流にて同じものであったのか、それぞれの创出者が同じ境
地に至ったためか、今となっては不明です。
五轮书は、地.水.火.风.空 の五巻で构成されています。奥
付によると正保二年(1645)五月十二日、一番弟子の寺尾孙之
丞信正に与えた口伝书です。武蔵はその一周间后、五月十九日に六
十二歳に没します。
地之巻 兵法者の平生の心构え
水之巻 二天一流の技の基础
火之巻 兵法の駆け引き、利を得ること
风之巻 他流派の癖、弱点を知る事
空之巻 二天一流の境地
本著では、二天一流の斩り合いの方法を记述した『水之巻』を彻
底的に解说しようと试みています。
3
まず(原文)、(现代语訳)の顺序に各节を说明します。必要に
応じて(解说)を记しました。
原文は、岩波书店、「五轮书」渡辺一郎氏の细川家蔵书の翻刻を
参考にさせて顶きました。现代语訳と解说は私の著作であります。
================
水之巻
(原文序)
兵法二天一流の心、水を本として、利方の法を行ふにより水の巻と
して、一流の太刀筋、此书に书顕すものなり。此道何れも细やかに
心の侭には书分がたし。たとひことばは続かざると云ふとも、利は
自から闻ゆべし。此书に书つけたる処、一ことゝゝ、一字々々にて
思案すべし。大方におもひては、道のちがふことおおかるべし。兵
法の利におゐて、一人一人との胜负のやうに书付たる所なり共、万
人と万人との合戦の理に心得、大きに见立るところ肝要なり。此道
に限って、少しなりとも、道を见违へ、道の迷ひありては、悪道に
おつるものなり。此书付ばかりを见て、兵法の道には及ぶ事にあら
ず。此书に书付たるを、我身に取つての书付と心得、见ると思はず
习ふと思はず、赝物にせずして、即ち我心より见出したる利にして、
常に其身になつて、能々工夫すべし。
(现代语訳)
兵法二天一流の心、水の様に変幻自在を本意として、兵法の理法
を追求することにより『水の巻』を编む。
当流(二天一流)の太刀筋を、この书に书き表す。ただしあらゆ
ることを细やかには书く事は出来ない。例え私の言叶は完全ではな
4
いと言えども、修行のうちに当流の理法は自ずと体得出来るだろう。
この书に书き付けた事は、一言一言、一字一字思案して欲しい。
适当に考えては勘违いをすることが多い。
兵法の理法において一対一の胜负の様に书いたところもあるが、
万と万の戦いにも通じると心得て、大势を见误らないことが重要で
ある。
兵法は、少しの见误りも道を违えることとなり、さらに迷ってし
まえば完全に误った方向に向かってしまうだろう。
この书を见ても兵法を会得することにはならない。书いてある事
を自分のための书き付けと思い、完全に自分のものにして、自身が
见いだした理法として、私と同じ境地に立って、よくよく工夫をし
て欲しい。
水之巻第一节
一 兵法心持の事
(原文)
兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、
兵法の时にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱ
らず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心
を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々
吟味すべし。静かなるときも心は静かならず、如何に疾き时も心は
少もはやからず、心は体につれず、体は心につれず、心に用心して、
身には用心をせず、心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、
上の心はよわくとも、底の心をつよく、心を人に见分けられざるや
うにして、小身なるものは心に大き成事を残らず知り、大身なるも
のは心に小きことをよく知りて、大身も小身も、心を直にして、我
5
身の贔弱をせざる様に心持ち肝要なり。心のうち浊らず、広くして、
ひろき処へ智恵を置べきなり。智恵も心もひたと研くこと専らなり。
智恵を磨ぎ天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、万の芸能、
其の道々をわたり、世间の人に少しもだまされざる様にして后、兵
法の智恵と成る心なり。兵法の智恵に於て、取分けちがふ事ある物
なり。戦の场万事せわしき时なりとも、兵法の道理を极め动きなき
心、能々吟味すべし。
(现代语訳)
兵法の道において、心の持ち方は常に平常心である。平时も戦う
时も少しも変わることなく、心を広く素直に持ち、紧张せず弛ませ
ず、执着しないように心を落ち着かせ、静かに働かせ、その働きの
一瞬も止まることがないよう、よくよく心得よ。
まわりが静かであっても、それに钓られてはならない。せわしな
い时は动じてはならない。心は身体に惑わされてはならない。身体
も心に影响されてはならない。心に用心をし、身体には用心をしな
い。
心の働きに不足、余りが无いようにし、外见の心は弱く见せても
内心は强く、人に心を见透かされないようにして、身体が小さい人
は心を大きく持ち、身体が大きい人は细やかな心持ちを忘れず、身
体の条件に関わらず心を素直にして、楽な方に流れないように心挂
けることが肝要だ。
心を浊らせず広く持ち、自在に知恵を出す。知恵も心も一心に磨
くことを心挂けよ。知恵を磨き、物事の善悪を知り、色々な芸能、
技术を知り、世间の嘘を见破れるようになって后、ようやく兵法の
知恵が得られる。兵法の知恵はそれらの知恵を凌驾しているものだ。
いくさの场で戦况がせわしくなった时でも、兵法の道理を极めて动
じない心を持つ事。よくよく考えて欲しい。
6
水之巻 第二节 兵法の身なりの事
宫本武蔵 「五轮书」の技を解说する
「水之巻」第二节
一 兵法の身なりの事
(原文)身のかかり、颜はうつむかず、仰のかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、额にしわをよせず、眉あいに皱をよせて目の玉动かざるやうにして、瞬きをせぬやうにおもひて、目を少しすくめるや
うにして、うらやかに见るるかを、鼻すじ直にして、少しおとがい
を出す心なり。首は后ろの筋を直に、うなじに力を入て、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、脊筋をろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰の屈まざる様に腹をはり、楔をしむると云て、脇差の鞘に腹をもたせ、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむると云ふ教へあり。総て兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり。よくゝゝ吟味す
べし。
(现代语訳)
敌と向かう时、颜は俯かせず、上げ过ぎず、斜めにせず、歪ませ
ず、目をきょろきょろさせず、颜を颦めず、眉に力を入れて目玉を
动かさず、瞬(またた) きを抑えて、远くを见るような目で、落ち着いて眺め、
鼻筋を通す様に真っ直ぐ立ち、少し颚(あご) を出す感じにする。
首筋を伸ばし、うなじに力を入れ、肩から全身に気を回し、両肩
7
は自然に垂らし、背筋をぴんとし、尻を突き出さずに、膝から下に
力を充実させ、腰が屈まないように腹に力を入れ、楔(くさび) を绞めると言
われるところの脇差しの鞘に腹を押しつける感じで、帯が缓まない
ようにするという古来の教えに従え。
全てに於いて、兵法をやるからにはこの身势を常に保つことが大
事だ。よく考えて工夫すべし。
(解说)
これは敌と相対した时の『身体のありかた』を教えていることは
すぐ分かりますが、现代人にとってこの姿势を取れる人は希ではな
いでしょうか?
居合をやっている人や礼法を习っている人の身のこなしに似てい
るとは思いますが、首の后ろを张って『少しおとがい(颚)を出し』
ている人は少ないと思います。
颚を出すのは新阴流でいわれる『位を取る』姿に通じると思われ、
相手と戦う前から见下ろし、心の中では既に胜っている状态になる
ことを示します。新阴流ではこれを『先々の先』の位と言います。
首の后ろに力を入れ、両肩を自然に下げ、背筋を伸ばすが尻を出
さず、というのは今の私たちでは非常に难しい格好です。现代のア
スリートなら胸を张り胸筋に力を入れ、尻を突き出しますよね。こ
れが西欧流の正しい『直立』ですが、日本の古武道では违うのです。
ここで教えられた通りに立つと、肩はどちらかというと前方に垂
れます。手に何も持っていないと、胸をあまり张らず普通に立つ格
好ですが、刀を両手で前に下げた时は胸を张ると穷屈になります。
そこで胸はあまり张らずに自然に肩が前に垂れます(垂らします)。
そして肩の関节を肩胛骨から独立させて伸ばせるようになると、刀
を振る时の円が大きくなり、远い间合いから打ち込むことが可能に
なるわけです。
8
『くさびをしむる』というのは、脇差しを『楔』に例えて、腹を
张って腰を落ち着かせるということの様に思えます。脐下丹田に力
を入れろということは昔から言われてますが、どういうことでしょ
うか?
私の解釈では、背骨の最下部の『仙骨』の下(尾てい骨侧)を前
方に丸める様に力を入れることと考えます。そうすると、尻は突き
出ずに却って引っ込みます。
これは相扑を取る时に、相手を押し倒す腰の入れ方と同じです。
腰を反らしていると、押される力に上体が対抗出来ません。刀を持
って、片足を大きく踏み込んで斩り込む瞬间もこの腰を保てと武蔵
は教えています。ここでは详しく书きませんが、この习いの通り、
踏み込む时、后ろの脚は真っ直ぐに踏ん张らなくてはなりません。
刀と刀で押し合いをする时に、后ろ足の膝が曲がったままだと、こ
の姿势を贯くことが难しくなります。
仙骨を张ったまま动くことの重要さは、斩り合いの基本となりま
す。この巻の他の部分にも出てきますが、斩り込む时に『腰から动
く』ことが肝要なので、このように教えるのです。
腕だけで刀を振ることと身体が前のめりになることを禁习とする
ための、一つの身体矫正法と言えるでしょう。仙骨に力が入ってな
いと『へっぴり腰』になります。
腕だけで刀を振ったり、へっぴり腰になったりすると、相手を刀
のもの打ち(刀の切っ先から9センチぐらい手前のところ)で打っ
た时、最大の破壊力は生まれません。どこかしら不十分な攻撃にな
ります。不十分な攻撃ということは、自分を危険に晒すことと同じ
です。
不十分な动作は自由度が大きく、その分、正しい姿势が崩れやす
くなります。崩れると、次の瞬间に身体が『居着く』(両脚の体重
9
移动が自由に出来なくなる、など)可能性が高くなります。つまり、
相手の反撃に晒された时、动けず斩られる危険性が高くなります。
またこの节で惊くのは、この背を伸ばして立つことは、戦国时代
の腰を十分落として构える『沈なる构え』ではないということです。
歴史上、现代剣道の様に真っ直ぐ立った姿势で构えることは、柳
生新阴流第三世の、柳生兵库助(天正7年(1579年). 庆安
3年(1650年))が始めたと言われています。彼が仕えた尾张
徳川家で、それまでの构えを変革した体势なのです。武蔵が『五轮
书』を书き始めたのが寛永二十年(1643)と言われるので、こ
の二人が生きた时代は丁度同じ顷です。吉川英治が、武蔵が兵库助
と邂逅するエピソードを书いていますが、あながち架空とは言えな
くなりました。ひょっとすると、お互いに研钻し合い、似た様な结
论に至ったのかも知れません...
このように人间の身体を正しく使うことを伝えるために、文章を
以てしても难しいということは、古今の真理であります。どの流派
の伝书を见ても、一文にて全てを述べる事はしておらず好习(良い
习い).禁习(悪い习い)の『一言』が横串を刺すように色々な个
所で述べられます。确かに私も一つの技の解说を试みる时に、付随
する全てを述べるとポイントがぶれてしまうというジレンマに陥り
ます。五轮书も、各论を通してその『横串』が有机的に刺さってい
るために、全文を総じて见ないと駄目な分けです。
武蔵も『この书のみに従え修行せよ。出ないと间违った方向にい
くぞ』ということを强调しており、『五轮书』の全体を一贯して身
につけないと、彼が『到达』した技は伝えられないと考えていたに
违いありません。
10
了
初稿 2009/7/4未明
水之巻 第三节 兵法の目付といふ事
一 兵法の眼付と云ふ事
(原文)眼の付け様は、大きに広く付るなり。観见の二つあり、観の目つよく、见の目よわく、远き所を近く见、近き所を远く见ること、兵法
の専なり。敌の太刀を知り、聊(いささ) かも敌の太刀を见ずと云事、兵法の大事なり。工夫あるべし。此眼付、小さき兵法にも、大なる兵法にも同じ事なり。目の玉动かずして、両脇を见ること肝要なり。か様のこと、急がしき时、俄にわきまへがたし。此书付を覚え、常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処、能々吟味有べきものなり。
(现代语訳)
兵法には、敌に対して目付(めつけ) ということがある。それは、视野を大
きく広く见ることである。
目付には、(まなこ) (けん) 観(かん) と见の二つの目付がある。観は心で见て、见は眼で
见る事である。
兵法では、心で察知するということを重要视して、実际に目で见
ることはその次ぎにし、近いところも远いところも同様に感じなく
てはならない。
敌の太刀の振られようを察知し、それをいちいち见なくとも良い
ようにすることが重要だ。工夫せよ。
この目付の重要さは一対一でも多数同志(あるいは一対多数)の
戦いでも同様だ。目玉を动かさないで両脇を见るようにせよ。これ
は戦况がせわしくなると出来なくなる。よってこの书き付けを覚え
ておいて、常にこの目付を取り、どんな状况でもそれを忘れてはな
らない。よくよく吟味せよ。
12
(解说)
目付とは流派により色々な教えがあります。武蔵自身も『风之巻』
にて他流派の目付を述べていますが、二天一流に於いては、
(1)目を动かさず、全体を见る
(2)全体の観察から相手の刀を见なくとも、その动きを察知する
と教えています。
新阴流では、第二世柳生石舟斎と第三世柳生兵库助とでは少し教
え方が変わりますが、武蔵が言う全く同じ言叶『観见の目付』を教
えています。新阴流の目の付けようとしては、拳、目、颜などにな
ります。しかし敌に胜つ方法に流派による违いがあるはずは无く、
『観见の目付』で敌の心の动きを察知し、先を取る、と言うのが、
両流派の考えの本质です。
武蔵も水之巻の序文で、自分の言叶では言い尽くせないことがあ
る、と书いており、実は我々もこれを肝に铭じて読む事が肝要であ
ります。
この节の原文をその通りに実行しても、本当に敌の心が読めると
は思えません。相手の心を読むためにはその表情、力のいれどころ、
目线の先、刀の构え方、足の位置など、一所悬命に目で情报を得な
ければなりません。
ここでは、そういう作业を一见で终了して、相手の次の动作を察
知し、先を取れと言っているのです。私はさらに、それを一瞬で终
わらせ、すぐさま敌の隙を打てと解釈します。原文ではよく分から
ないですが、时间的な余裕はない筈です。相手の刀を见なくとも済
むようにせよ、とはこれらのもろもろを一言で集约した教条と思わ
れます。
また『远き所を近きに见て云々』という文がありますが、私は简
単に『近いところも远いところも同様に感じ』と訳しました。しか
【由pdf格式文件转成,所以阅读起来会有些奇♂怪的符号】
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泊瀬光延
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泊瀬光延
【あらすじ】
宫本武蔵の兵法の集大成である五轮书も、ビジネス戦略や精神修
养の意味では読まれていますが、真の古武道の书としては现在、理
解出来る人は少ないと思われます。その理由は、ここに书かれてい
る身体の使い方が、西洋式の体操に惯れた现代人には分からなくな
っているからです。著者は、书に书かれている技を分かりやすく解
说しようと试みます。武蔵の简単に书かれた文章からその身体法、
敌への対処法を再构成するために、ヒントとなったのが、现在に多
くの古い技を残している尾张柳生新阴流の研究でした。と言っても
このPDFファイルは「小说家になろう」で掲载中の小说を「タ
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日本人はまだ古い记忆を持っています。お盆で踊る踊りにも、古武
道の基本である「ナンバ」の身体法が残っているのです。
水之巻 序.第一节 兵法心持の事
.主に身体のありかた、使い方、技などについて
はじめに
今までの一般的な訳から脱却して、古武道としての教え、考え方
を武蔵に倾倒することなく、客観的に解说していきたいと考えてい
ます。
また、身体势法として多くの技を现在に残している、尾张柳生新
阴流と対比させながら、分析も行います。二天一流と新阴流の剣理
は、双子の様に似ている事が分かります。これは元々古武道という
ものが底流にて同じものであったのか、それぞれの创出者が同じ境
地に至ったためか、今となっては不明です。
五轮书は、地.水.火.风.空 の五巻で构成されています。奥
付によると正保二年(1645)五月十二日、一番弟子の寺尾孙之
丞信正に与えた口伝书です。武蔵はその一周间后、五月十九日に六
十二歳に没します。
地之巻 兵法者の平生の心构え
水之巻 二天一流の技の基础
火之巻 兵法の駆け引き、利を得ること
风之巻 他流派の癖、弱点を知る事
空之巻 二天一流の境地
本著では、二天一流の斩り合いの方法を记述した『水之巻』を彻
底的に解说しようと试みています。
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まず(原文)、(现代语訳)の顺序に各节を说明します。必要に
応じて(解说)を记しました。
原文は、岩波书店、「五轮书」渡辺一郎氏の细川家蔵书の翻刻を
参考にさせて顶きました。现代语訳と解说は私の著作であります。
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水之巻
(原文序)
兵法二天一流の心、水を本として、利方の法を行ふにより水の巻と
して、一流の太刀筋、此书に书顕すものなり。此道何れも细やかに
心の侭には书分がたし。たとひことばは続かざると云ふとも、利は
自から闻ゆべし。此书に书つけたる処、一ことゝゝ、一字々々にて
思案すべし。大方におもひては、道のちがふことおおかるべし。兵
法の利におゐて、一人一人との胜负のやうに书付たる所なり共、万
人と万人との合戦の理に心得、大きに见立るところ肝要なり。此道
に限って、少しなりとも、道を见违へ、道の迷ひありては、悪道に
おつるものなり。此书付ばかりを见て、兵法の道には及ぶ事にあら
ず。此书に书付たるを、我身に取つての书付と心得、见ると思はず
习ふと思はず、赝物にせずして、即ち我心より见出したる利にして、
常に其身になつて、能々工夫すべし。
(现代语訳)
兵法二天一流の心、水の様に変幻自在を本意として、兵法の理法
を追求することにより『水の巻』を编む。
当流(二天一流)の太刀筋を、この书に书き表す。ただしあらゆ
ることを细やかには书く事は出来ない。例え私の言叶は完全ではな
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いと言えども、修行のうちに当流の理法は自ずと体得出来るだろう。
この书に书き付けた事は、一言一言、一字一字思案して欲しい。
适当に考えては勘违いをすることが多い。
兵法の理法において一対一の胜负の様に书いたところもあるが、
万と万の戦いにも通じると心得て、大势を见误らないことが重要で
ある。
兵法は、少しの见误りも道を违えることとなり、さらに迷ってし
まえば完全に误った方向に向かってしまうだろう。
この书を见ても兵法を会得することにはならない。书いてある事
を自分のための书き付けと思い、完全に自分のものにして、自身が
见いだした理法として、私と同じ境地に立って、よくよく工夫をし
て欲しい。
水之巻第一节
一 兵法心持の事
(原文)
兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、
兵法の时にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱ
らず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心
を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々
吟味すべし。静かなるときも心は静かならず、如何に疾き时も心は
少もはやからず、心は体につれず、体は心につれず、心に用心して、
身には用心をせず、心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、
上の心はよわくとも、底の心をつよく、心を人に见分けられざるや
うにして、小身なるものは心に大き成事を残らず知り、大身なるも
のは心に小きことをよく知りて、大身も小身も、心を直にして、我
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身の贔弱をせざる様に心持ち肝要なり。心のうち浊らず、広くして、
ひろき処へ智恵を置べきなり。智恵も心もひたと研くこと専らなり。
智恵を磨ぎ天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、万の芸能、
其の道々をわたり、世间の人に少しもだまされざる様にして后、兵
法の智恵と成る心なり。兵法の智恵に於て、取分けちがふ事ある物
なり。戦の场万事せわしき时なりとも、兵法の道理を极め动きなき
心、能々吟味すべし。
(现代语訳)
兵法の道において、心の持ち方は常に平常心である。平时も戦う
时も少しも変わることなく、心を広く素直に持ち、紧张せず弛ませ
ず、执着しないように心を落ち着かせ、静かに働かせ、その働きの
一瞬も止まることがないよう、よくよく心得よ。
まわりが静かであっても、それに钓られてはならない。せわしな
い时は动じてはならない。心は身体に惑わされてはならない。身体
も心に影响されてはならない。心に用心をし、身体には用心をしな
い。
心の働きに不足、余りが无いようにし、外见の心は弱く见せても
内心は强く、人に心を见透かされないようにして、身体が小さい人
は心を大きく持ち、身体が大きい人は细やかな心持ちを忘れず、身
体の条件に関わらず心を素直にして、楽な方に流れないように心挂
けることが肝要だ。
心を浊らせず広く持ち、自在に知恵を出す。知恵も心も一心に磨
くことを心挂けよ。知恵を磨き、物事の善悪を知り、色々な芸能、
技术を知り、世间の嘘を见破れるようになって后、ようやく兵法の
知恵が得られる。兵法の知恵はそれらの知恵を凌驾しているものだ。
いくさの场で戦况がせわしくなった时でも、兵法の道理を极めて动
じない心を持つ事。よくよく考えて欲しい。
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水之巻 第二节 兵法の身なりの事
宫本武蔵 「五轮书」の技を解说する
「水之巻」第二节
一 兵法の身なりの事
(原文)身のかかり、颜はうつむかず、仰のかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、额にしわをよせず、眉あいに皱をよせて目の玉动かざるやうにして、瞬きをせぬやうにおもひて、目を少しすくめるや
うにして、うらやかに见るるかを、鼻すじ直にして、少しおとがい
を出す心なり。首は后ろの筋を直に、うなじに力を入て、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、脊筋をろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰の屈まざる様に腹をはり、楔をしむると云て、脇差の鞘に腹をもたせ、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむると云ふ教へあり。総て兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり。よくゝゝ吟味す
べし。
(现代语訳)
敌と向かう时、颜は俯かせず、上げ过ぎず、斜めにせず、歪ませ
ず、目をきょろきょろさせず、颜を颦めず、眉に力を入れて目玉を
动かさず、瞬(またた) きを抑えて、远くを见るような目で、落ち着いて眺め、
鼻筋を通す様に真っ直ぐ立ち、少し颚(あご) を出す感じにする。
首筋を伸ばし、うなじに力を入れ、肩から全身に気を回し、両肩
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は自然に垂らし、背筋をぴんとし、尻を突き出さずに、膝から下に
力を充実させ、腰が屈まないように腹に力を入れ、楔(くさび) を绞めると言
われるところの脇差しの鞘に腹を押しつける感じで、帯が缓まない
ようにするという古来の教えに従え。
全てに於いて、兵法をやるからにはこの身势を常に保つことが大
事だ。よく考えて工夫すべし。
(解说)
これは敌と相対した时の『身体のありかた』を教えていることは
すぐ分かりますが、现代人にとってこの姿势を取れる人は希ではな
いでしょうか?
居合をやっている人や礼法を习っている人の身のこなしに似てい
るとは思いますが、首の后ろを张って『少しおとがい(颚)を出し』
ている人は少ないと思います。
颚を出すのは新阴流でいわれる『位を取る』姿に通じると思われ、
相手と戦う前から见下ろし、心の中では既に胜っている状态になる
ことを示します。新阴流ではこれを『先々の先』の位と言います。
首の后ろに力を入れ、両肩を自然に下げ、背筋を伸ばすが尻を出
さず、というのは今の私たちでは非常に难しい格好です。现代のア
スリートなら胸を张り胸筋に力を入れ、尻を突き出しますよね。こ
れが西欧流の正しい『直立』ですが、日本の古武道では违うのです。
ここで教えられた通りに立つと、肩はどちらかというと前方に垂
れます。手に何も持っていないと、胸をあまり张らず普通に立つ格
好ですが、刀を両手で前に下げた时は胸を张ると穷屈になります。
そこで胸はあまり张らずに自然に肩が前に垂れます(垂らします)。
そして肩の関节を肩胛骨から独立させて伸ばせるようになると、刀
を振る时の円が大きくなり、远い间合いから打ち込むことが可能に
なるわけです。
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『くさびをしむる』というのは、脇差しを『楔』に例えて、腹を
张って腰を落ち着かせるということの様に思えます。脐下丹田に力
を入れろということは昔から言われてますが、どういうことでしょ
うか?
私の解釈では、背骨の最下部の『仙骨』の下(尾てい骨侧)を前
方に丸める様に力を入れることと考えます。そうすると、尻は突き
出ずに却って引っ込みます。
これは相扑を取る时に、相手を押し倒す腰の入れ方と同じです。
腰を反らしていると、押される力に上体が対抗出来ません。刀を持
って、片足を大きく踏み込んで斩り込む瞬间もこの腰を保てと武蔵
は教えています。ここでは详しく书きませんが、この习いの通り、
踏み込む时、后ろの脚は真っ直ぐに踏ん张らなくてはなりません。
刀と刀で押し合いをする时に、后ろ足の膝が曲がったままだと、こ
の姿势を贯くことが难しくなります。
仙骨を张ったまま动くことの重要さは、斩り合いの基本となりま
す。この巻の他の部分にも出てきますが、斩り込む时に『腰から动
く』ことが肝要なので、このように教えるのです。
腕だけで刀を振ることと身体が前のめりになることを禁习とする
ための、一つの身体矫正法と言えるでしょう。仙骨に力が入ってな
いと『へっぴり腰』になります。
腕だけで刀を振ったり、へっぴり腰になったりすると、相手を刀
のもの打ち(刀の切っ先から9センチぐらい手前のところ)で打っ
た时、最大の破壊力は生まれません。どこかしら不十分な攻撃にな
ります。不十分な攻撃ということは、自分を危険に晒すことと同じ
です。
不十分な动作は自由度が大きく、その分、正しい姿势が崩れやす
くなります。崩れると、次の瞬间に身体が『居着く』(両脚の体重
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移动が自由に出来なくなる、など)可能性が高くなります。つまり、
相手の反撃に晒された时、动けず斩られる危険性が高くなります。
またこの节で惊くのは、この背を伸ばして立つことは、戦国时代
の腰を十分落として构える『沈なる构え』ではないということです。
歴史上、现代剣道の様に真っ直ぐ立った姿势で构えることは、柳
生新阴流第三世の、柳生兵库助(天正7年(1579年). 庆安
3年(1650年))が始めたと言われています。彼が仕えた尾张
徳川家で、それまでの构えを変革した体势なのです。武蔵が『五轮
书』を书き始めたのが寛永二十年(1643)と言われるので、こ
の二人が生きた时代は丁度同じ顷です。吉川英治が、武蔵が兵库助
と邂逅するエピソードを书いていますが、あながち架空とは言えな
くなりました。ひょっとすると、お互いに研钻し合い、似た様な结
论に至ったのかも知れません...
このように人间の身体を正しく使うことを伝えるために、文章を
以てしても难しいということは、古今の真理であります。どの流派
の伝书を见ても、一文にて全てを述べる事はしておらず好习(良い
习い).禁习(悪い习い)の『一言』が横串を刺すように色々な个
所で述べられます。确かに私も一つの技の解说を试みる时に、付随
する全てを述べるとポイントがぶれてしまうというジレンマに陥り
ます。五轮书も、各论を通してその『横串』が有机的に刺さってい
るために、全文を総じて见ないと駄目な分けです。
武蔵も『この书のみに従え修行せよ。出ないと间违った方向にい
くぞ』ということを强调しており、『五轮书』の全体を一贯して身
につけないと、彼が『到达』した技は伝えられないと考えていたに
违いありません。
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了
初稿 2009/7/4未明
水之巻 第三节 兵法の目付といふ事
一 兵法の眼付と云ふ事
(原文)眼の付け様は、大きに広く付るなり。観见の二つあり、観の目つよく、见の目よわく、远き所を近く见、近き所を远く见ること、兵法
の専なり。敌の太刀を知り、聊(いささ) かも敌の太刀を见ずと云事、兵法の大事なり。工夫あるべし。此眼付、小さき兵法にも、大なる兵法にも同じ事なり。目の玉动かずして、両脇を见ること肝要なり。か様のこと、急がしき时、俄にわきまへがたし。此书付を覚え、常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処、能々吟味有べきものなり。
(现代语訳)
兵法には、敌に対して目付(めつけ) ということがある。それは、视野を大
きく広く见ることである。
目付には、(まなこ) (けん) 観(かん) と见の二つの目付がある。観は心で见て、见は眼で
见る事である。
兵法では、心で察知するということを重要视して、実际に目で见
ることはその次ぎにし、近いところも远いところも同様に感じなく
てはならない。
敌の太刀の振られようを察知し、それをいちいち见なくとも良い
ようにすることが重要だ。工夫せよ。
この目付の重要さは一対一でも多数同志(あるいは一対多数)の
戦いでも同様だ。目玉を动かさないで両脇を见るようにせよ。これ
は戦况がせわしくなると出来なくなる。よってこの书き付けを覚え
ておいて、常にこの目付を取り、どんな状况でもそれを忘れてはな
らない。よくよく吟味せよ。
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(解说)
目付とは流派により色々な教えがあります。武蔵自身も『风之巻』
にて他流派の目付を述べていますが、二天一流に於いては、
(1)目を动かさず、全体を见る
(2)全体の観察から相手の刀を见なくとも、その动きを察知する
と教えています。
新阴流では、第二世柳生石舟斎と第三世柳生兵库助とでは少し教
え方が変わりますが、武蔵が言う全く同じ言叶『観见の目付』を教
えています。新阴流の目の付けようとしては、拳、目、颜などにな
ります。しかし敌に胜つ方法に流派による违いがあるはずは无く、
『観见の目付』で敌の心の动きを察知し、先を取る、と言うのが、
両流派の考えの本质です。
武蔵も水之巻の序文で、自分の言叶では言い尽くせないことがあ
る、と书いており、実は我々もこれを肝に铭じて読む事が肝要であ
ります。
この节の原文をその通りに実行しても、本当に敌の心が読めると
は思えません。相手の心を読むためにはその表情、力のいれどころ、
目线の先、刀の构え方、足の位置など、一所悬命に目で情报を得な
ければなりません。
ここでは、そういう作业を一见で终了して、相手の次の动作を察
知し、先を取れと言っているのです。私はさらに、それを一瞬で终
わらせ、すぐさま敌の隙を打てと解釈します。原文ではよく分から
ないですが、时间的な余裕はない筈です。相手の刀を见なくとも済
むようにせよ、とはこれらのもろもろを一言で集约した教条と思わ
れます。
また『远き所を近きに见て云々』という文がありますが、私は简
単に『近いところも远いところも同様に感じ』と訳しました。しか